いつものように暇さえあればGoogle Mapを見ている夕食後の時間帯。
適当に地図をぼけーっと眺めていて、気になるところがあればチェックするのが習慣の一つになっているのですが、ふと高知県の山中を眺めているときに一件の宿を見つけました。それが、高知県長岡郡本山町本山にある高知屋旅館です。
高知県なだけに名前が高知屋なのか…と最初はあまり気になっていなかったものの、ストリートビューを確認して驚きました。いかにも風情ある外観で、これは内装も素晴らしいに違いないとなかば確信を持ったのを覚えています。早速電話をしてみると問題なく営業されているとのことで、少なくとも泊まれることは間違いない。
善は急げということで泊まってきました。
館内散策
今回高知屋旅館を訪れたのは、時系列で言うとさくらぎ館に宿泊した翌日になります。
さくらぎ館から高知屋旅館に行く道中にも色々あったものの、今回は純粋に高知屋旅館についてご紹介したいと思います。
まずは外観から。
旅館ならではの荘厳とした玄関がまず目に入り、その後に2階部分へと視線が移る。瓦屋根と木、それに漆喰やガラス戸が芸術品のように組み合わさった構造をしていて、もうこの時点でここに泊まることを決めたのは正解でした。外観についてはストリートビューで確認していたこともあるけど、いざ実物を目の当たりにすると迫力が本当にすごいです。
左手方向の1階部分は車庫になっていて、ここに軽自動車が泊まっていました。車庫部分は元々はどうやら土間だったようで、車庫のすぐ奥側には台所がありました。
宿の前で放心状態になっていると女将さんが登場し、「まだ時間は早いけど好きなだけ中でくつろいでもらっていいよ」とのことで、お言葉に甘えて中に入ることにしました。
玄関の引き戸をガラガラと開けて中へ。
玄関が広いというのは、それだけでなんか安心できます。横方向だけでなく縦方向にも十分な広さがあり、閉塞感を全く感じさせません。むしろ広すぎて萎縮してしまうくらいには予想以上に広いです。
玄関を上がってすぐのところには床の間付きの部屋があり、ここを左に抜ければ1階奥へ、右手に見える階段を上れば2階の客室や大広間へと繋がっています。
このスペースに畳敷きの部屋があるのは個人的には珍しい気がします。通常なら木の廊下があって、そこから各部屋に繋がる構造になっているのを想像していましたが、いきなり予想の上を行くような光景が広がっていて嬉しい。
ここから2階にある今回のお部屋に案内していただいた途中、この階段がまた面白い構造をしていた。
先程外観を確認したときに見えた車庫、あそこに続く階段が壁を挟んで反対側に存在していて、大きい視点で見てみれば幅広な階段を壁で区切ったような形になっています。階段を降りた先にも戸があるのでそこでも玄関と車庫の行き来が可能で、なんとも不思議な造りでした。
高知屋旅館最大の特徴といってもいいのがこの回廊部分。
先程の階段を上っていった先には廊下があり、建物中心部の中庭を囲むようにぐるっと回っています。中庭があるだけでも素敵なのに、廊下のどこからでもそれが見渡せてしまうという構造になっていてもう感激。
中庭というと1階しかない平屋建てで多く見られるような気がして、2階分まとめて周囲の建物が囲っているのでその開放感はかなりのものです。
そのまま廊下を直進していくと、今回お世話になる部屋があります。
場所的には一番南端にあり、部屋に面した窓を開けると山側の風景が目に入ってきました。ここまで中が広いのは完全に予想外だったので、休憩もそこそこに屋内をあれこれ散策することにします。
1階部分。
さっきの玄関を入ったところにある小部屋を左に進むと、2階部分と同様に中庭に面した廊下や部屋があります。実は今回泊まる部屋のすぐ横にも階段があって、そこからも1階に降りることができます。屋内が尋常じゃなく広いだけに階段の数は多めという感じ。
1階部分の部屋数は多いものの、いずれもご主人や女将さんの生活スペースになっているようでした。
中庭の広さも相当なもので、中庭というよりは庭園といった雰囲気が漂っています。苔むした石や植物で囲まれた水場もあるし、静寂な館内で水音だけが響いている様子がなんとも印象的。
昔は使われていたと思われる戸もあったりするわけですが、さっきも書いた通り2階部分まで建物が四方に立ちふさがっている状態なので、日当たりはそこまでよくなさそうな感じです。これでしっかり植物が育っているのだから相当工夫されているんだろうなと思いました。
1階には他にお風呂や洗面台、トイレがあり、あとは食事をとる食堂があります。なので、客室として使用されているのは完全に2階だけのようです。
そして、この正面に見える建物が相当に特徴的でした。
何かというと、思いっきり洋風なこと。
ここまでの道中にはいかにも"旅館"な和風の雰囲気のみがあったのに対し、この一角だけが洋風のつくりになっているのがわかります。これは昭和初期にダンスホールとして建てられたためとのことで、反対側にある大広間(宴会場)とセットで使われていたらしく、まさに和洋折衷が垣間見える風景といえます。
ここからは散策の場を2階へ移しました。
玄関から2階へ上がって、客室方向へ進むのと反対方向に行ってみると大広間(女将さん曰く百畳敷というらしい)がありました。
旅館の外観を確認したときに右手上方向に見えていた空間になりますが、百畳敷という名の通りとにかく広いです。そこらへんの体育館並みの収容数があることは間違いなさそうで、ここで宴会なんかやったら相当豪華なものになりそう。
次は1階の廊下から見えたダンスホールに行ってみることにします。
ダンスホール部分に入る戸にはノブが設けてあり、外観だけでなく内装に関しても洋風にしていることが分かります。
ノブを回して戸を開けると廊下があって、そこにはカーテンがかかっていました。
カーテンを開けた先には洋風の開き窓があり、窓を開けるとさっき通ってきた廊下が見える。目の前の窓と、窓から眺めた先の和風な構造とのギャップにふと混乱してしまう。建築様式としては全く別のものでありながらも、見事な一体感を感じさせています。
ダンスホールがあったであろう空間は今では客室に変わっていました。ここの客室数は2つで、ダンスホールとして使われていた影響か壁はなく襖が張られており、襖を開ければ二間続きになります。
これですべての部屋を一通り散策し終わったので、改めてのんびり周辺を歩き回ることにしました。
この中庭に面した廊下の居心地の良さが半端じゃない。
特に窓の内側に張り巡らされた欄干がもう素敵過ぎる。見たところ昔は窓がなくて欄干だけの状態で、後付けで窓を設置したというわけではなく、この欄干と窓はセットで造られたようです。ということは欄干は意匠の一つであるわけで、細部まで凝られた模様だったり木の組み方だったりが、この旅館全体に広がる美しさをより増大させているといえます。
居心地の良さを十二分に感じさせつつもどこか懐かしく、それでいて美しく感じる。ここまで高知屋旅館を散策してきて、そんな気持ちでいっぱいでした。
そんな風にしていると、気がつけばもう日暮れの時間。
途端に寒くなってきたので部屋に戻り、浴衣を片手にお風呂に入りにいきました。お風呂はいつでも入れるとのことで、今日は自分以外に宿泊する人が皆無なので思う存分のんびりできます。
夕食
夕食は散策のときに確認した1階の車庫奥の部屋でいただくことになります。
ここには一通りの食器類やテレビなどがあり、ご主人や女将さんもここで食事をとっている様子でした。
夕食はこのように、割烹旅館のような派手なものではなく家庭的なものがメイン。メニューも幅広くて、豚の生姜焼きがあったのが個人的に嬉しい。
旅館の食事って、もう何から何まで美味しいのが特徴の一つだと思います。
宿の雰囲気が料理自体の美味しさに上乗せされて、さらに旨味が増しているのはもちろんのことだけど、一品一品が御飯のおかずとして完成されているものだから白米の消費が進んで仕方ない。
何が素敵かって、明日は年休をとったので「日曜の翌日が仕事じゃない」という点。普段だったら日曜の夜って労働の気配を感じてしまって鬱状態になるものの、明日も行動しまくれるという事実だけでもう酒がうまい。
夕食のあとは宿の前をぶらぶら散歩してみたり、真っ暗な大広間で雰囲気に浸ったりしながら時間を過ごした後に就寝。
散策してたら眠気が襲ってきたので布団に潜り込みました。
翌朝
いつものように目を覚ますと、昨日の疲労がすっかりなくなっていた。
秋の朝、それに平日ということもあって宿周辺は非常に静かなもの。そんな中でいただく朝食はしんみりとしていて、味噌汁の温かさが身に染みていく。今日も良い一日になりそう。
ここで女将さんが宿の各所を案内しながら色々説明してくれることになったので、お言葉に甘えることにしました。
今日の予定自体はあるにはあったけど、今日はとある風景を見に行く予定だけで、それはいつの間にか消えてなくなってしまうわけではない。どちらかといえばこの貴重な宿のお話を伺えるとなればそっちの方を優先するのは当然のこと。
そういうわけなので、ご説明いただいたことをつらつら書いていきます。
高知屋旅館の創業は大正14年で、はじめは料亭として始まり、戦後から旅館となったそうです。今では国道439号が北に走っていますが、昔は宿の前の通りがメインストリートだったとのこと。
今では宿の近くには店もなく、国道439号が整備されたときにみんな向こう側に移ってしまったようです。なので宿のほかには民家が並んでいるだけで、その面影を確認するのは少し困難でした。
続いて大広間へ。
大広間は出征前の兵隊さんがよく使用されていたとのことで、宴会の傍らで芸者さんが当時使っていた鼓や茶釜が今も残されています。これって相当貴重なのではと思うと同時に、出征前というと生きて帰ってこれるとは限らないわけで、宴会といっても自分が想像するようなものではないのだろうなと感じました。
そして、いざ戦時中になれば芸者さん達はお嫁に行かせるしかなく、従ってそれ以降は大広間の使用頻度がめっきり減ったらしいです。今では使っていない布団や座布団の置き場になっていました。
大広間の手前側の小部屋が芸者さんが演奏されていたスペースで、大広間よりも一段低くなっています。
小部屋といっても8畳ほどの広さがあって、大人数でも演奏に支障はない感じ。大広間のとてつもない広さもそうですが、ここまで豪華な旅館は当時でもなかなかお目にかかれないレベルだったのではないでしょうか。
大広間には他にもこの地域で初めて導入された年代物のシーリングファンや、大きな木のウロの置物があったりして、これらも当時の華やかさを感じさせるものです。
宿の構造という面から見ると、ほぼ全ての木に節がない吉野檜を使っているのが特徴。
柱については1階から2階までぶち抜きで通っており、さらには釘を一本も使っておらず木だけで結合を確保しているとのことでした。節がない吉野檜自体が現代では手に入りにくいほど珍しく、木にはあまり詳しくないのですが、ここまで潤沢にそれを使っている建物は全国を探しても無いような気がする。
しかもただ木を使った無骨な造りというわけでは一切なくて、意匠をこらした装飾が随所に散りばめられているのが良い。窓が付いているところは基本的に欄干がセットになっていて、転落防止の意味もあるようです。
次は客室にやってきました。
2階の中庭に面した客室は、ご覧の通り部屋と部屋の仕切りが襖となっています。その上方に目をやってみると欄間があるわけですが、この欄間の絵柄が部屋によって全て異なるのがまた凄いところ。
昔は欄間の職人さんが全国を渡り歩きながら制作をされていたらしく、これらの欄間は静岡の方が来られたときに作られた作品。部屋を移っていくに連れて連作になっており、ある種の物語になっているとのことでした。
一方で、中庭側の欄間は一貫して上記のような模様になっていて、これも木を張り合わせて作られているのでかなり剥がれやすく、その都度女将さんが手直しされている様子。
しかしめちゃくちゃ緻密な絵柄なので、ほんの少し隙間があいただけで取れるそうです。実際に斜めの部分が取れている箇所が多かった。
この高知屋旅館を構成している全ての「作品」に思いが詰まっていて、それらを眺めているだけでもう満足できる。
ただ漠然と宿の雰囲気に浸るのも良いものですが、こうして由来や昔話を聞きながら味わうとより一層感慨深いものがあります。
現代にいながら大正の時代を感じられる。そんな気がしてくるほど、この宿が歩んできた年月は長い。
最後は中庭を眺めながらお茶を飲んだ。
この宿に今まで一体何人の人が泊まったのか定かではないものの、おそらく自分と同じようなノスタルジックな感情に至ったと思います。
ちなみに女将さんは、すぐ近くにある早明浦ダム(よく貯水量がニュースになるやつ、1975年竣工)の完成と同時に本山町に移住し、そこからずっと宿と一緒に歩んできたと伺いました。
こんな素敵な宿なのだから、今後もずっと営業されてほしいという思いは強いものの、話によれば維持費がかなり負担になっているらしく、残念ながら旅館を閉めようか迷われているとのこと。
なのでもし泊まりたいと考えている人がいれば、早めに行くことをおすすめします。
あれこれお話をしながら、心ゆくまでこの宿を堪能できました。もうちょっとだけと思いながら玄関の前で記念撮影をしてからの出発。
最後は何度も振り返って旅館を確認しながら本山町を後にしました。
おわりに
下調べをあまりしないで決行する旅の面白さは、こういう宿に出会えたときにこそ強く感じられるのではないかと思います。
目に入ってくるもの全てが面白く、興味を引き立ててくる出会いというのはなかなかあるものではない。旅先での出会いは一期一会という言葉があって、一つの旅の中で遭遇した思い出を辿るためにまた再訪するというのも旅の動機としては良いもの。高知屋旅館はぜひともまた訪れたいほど好きになりました。
おしまい。
コメント