今回は、長野県信濃町にあるふじのや旅館に泊まってきました。
しなの鉄道北しなの線の黒姫駅前に建っていることから、立ち位置としては駅前旅館になります。
駅前旅館
ふじのや(藤野屋)旅館は登録有形文化財に登録されているほど貴重な旅館であり、創業は明治43年(1910年)。2021年現在では創業111年となっています。
この旅館に投宿する前に、ふじのや旅館の簡単な沿革をご説明します。
- 明治21年(1888年):信越本線柏原駅(現在の黒姫)が開業する。
- 明治21年(1888年):小林嘉七(初代)がこの地で割烹料理屋を始める。
- 明治34年(1902年):小林由三郎(二代目)が旅館業を始める。
- 明治43年(1910年):小林嘉左ェ門(三代目)が現在の「藤野屋旅館本館」を建設。
- 昭和44年(1969年):小林隆信(五代目)が「はなれ」を増築。
旅館の目の前を走っている旧信越本線(現しなの鉄道北しなの線)の開通と同時に開業した建物であり、駅の利用客を主な対象としたいわゆる「駅前旅館」の中でも、その役割を古くから担っていた存在と言えます。
ネット上を探してもその記録がほとんど残っていなかったため、気になって今回泊まってきました。最初にその詳細を書いてしまうと、現在では食事の提供は行っておらず、料金は素泊まり¥4000です。
ここからは早速中に入っていくわけですが、なんといってもこの外観が特徴的。
この一角だけ時代が違うような雰囲気を漂わせていて、切妻造りの屋根や2階に見える欄干、ここが雪国であることを如実に物語るような1階部分の庇部分など、明治から昭和にかけての旅館の佇まいを随所に感じさせているのがわかります。
館内散策
改めて外観を確認してみると、「旅館ふじのや」と書かれた看板がありました。
元々の名前は「藤野屋旅館」なのに、わざわざひらがなに直したのは何か理由があるんでしょうか。このパターンは全国各地でも見られている事象なので気になっているんですが、単に覚えやすい名前に変更したということなのかもしれません。
「旅館」という前提でその建物を訪問した際に想定する構造としては、入り口の真正面が玄関土間になっていて、その先に玄関があるというのが一般的だと思います。
しかし、このふじのや旅館ではその想定を覆すような独特の構造になっていて面白みを感じました。入り口を入ってすぐは突き当りになっていて、左方向に進んでいった先に広い玄関土間があります。考えようによっては車も停められるくらいに玄関土間は広大としており、置かれている椅子やストーブも含めて、ここでじっくりと話し込んだりできそうなほど居心地の良さを感じました。
後から伺ったご主人のお話によれば、この辺りの地域は冬になると2mとか3mほども雪が積るほどの豪雪地帯で、かつては1階の入り口部分には雪を掘ってでないと到達できないほどだったそうです。昔は除雪機といった便利な機械もなく人力オンリーだったし、そう思うとこの玄関土間の広さも納得かもしれません。入り口を入ってすぐに部屋があるといろんな意味で大変な上、この土間部分で雪を払ったりしてたんだと思います。
建物の構造とその土地の気候には密接な関係がありますが、自分が全国各地の宿を訪れる中でそれを考慮しながら散策するのが結構好きだったりします。人が住む施設として旅館は一つとして同じものはなく、旅先で旅館を訪れるたびに新鮮な気持ちで投宿することができる。
宿泊をどう楽しむかは人によって異なるものの、そういった細かな差異を見つけてみるのも面白い。
この部分だけ切り取ると旅館というよりはむしろ民家に近い。
旅館の玄関といえば建物の顔になるところであるし、格式高いところだと敷居を跨ぐのもはばかられるような雰囲気になっているところもある。でも、ふじのや旅館の入り口にはそういうものは感じられなくて、客側が変に力を入れる必要がないアットホームなものを感じました。
玄関土間の右部分(入り口の正面部分)は応接室になっていて、客人を迎え入れるのはこの部屋で行っているようでした。
応接室のさらに右側は居室になっているようですが、普段から使われている様子ではなかったです。
そのまま直進すると2階への階段があり、そこを上っていくと外観から確認できた2階部分へと行くことができます。
2階へ上がる階段をスルーしてさらに正面に向かったところには帳場や厨房、食堂などがあり、厨房横にはご主人ご一家の生活スペースへ続く階段がありました。建物裏手側からすでに確認した通り、この生活スペースは本館とは別棟になっています。
さらにまっすぐ進むとはなれがあり、宿泊者は本館ではなくこっちに泊まることになります。
はなれには1階に2部屋、2階に2部屋の合計4部屋があって、今回は1階の2部屋を二間続きで使わせていただきました。内装は比較的新しめに見えますが50年ほど前に建てられたということで、エアコンはありません。今回は涼しい時期に泊まったのでなんとかなったけど、完全な夏場になったら扇風機で乗り切る形になると思います。まあ夏場でも涼しい地域なので特に問題ないかと。
さっきみた本館には泊まれないのって話なんですが、建築法の関係で本館にはもう泊まれないそうです。後述の通り今では完全に使われておらず、布団置き場や洗濯物干しスペースになってました。
ただ完全に泊まれないのかというとそうではなくて、宿泊者がOKすれば泊まることは可能なのだそう。詳しいことはよくわかりませんが、将来的にはまた本館の方にも泊まれたりするかもしれません。
はなれにはトイレや洗面所が別途設置してあるほか、すぐそこにお風呂場もあるので休息するという意味では憂いはなかったです。通りから奥まった場所にあるので夜でも静かだし、音が気になるという人でも安心。
本館の2階へ
寝床を確認したところで、残りの滞在時間のほとんどは本館の2階で過ごしてました。
先程書いたように本館2階は今では使われてはいないものの、それは宿泊用としての話。定期的に掃除はされているとのことなので、見学ついでにくつろぐ分には問題ないようです。
本館2階の構造は、階段を上がった先の廊下を挟んで通り側/建物奥側にそれぞれ4部屋ずつ客室があります。
廊下の左右に客室が並んでいる非常にシンプルな構成になっており、廊下は一直線なので見通しもいいです。
そして、2階の客室についてはこのとおりです。
建物奥側の4部屋については完全に布団置き場になっているようで、部屋と部屋との間には壁がある構造でした。以前はちゃんとした客室として人が入っていたのは間違いないものの、こういう風に物置然としているとなんだか悲しいものがあります。
豪雪地帯に建っている建物だけに雪の影響は100年以上前から積み重なっており、今ではあちこちが歪んだり傾いたりしていました。特に客室の入り口にある障子戸が開かなくなっているところもあって、この地域で木造建築を建てることの難しさも少し感じることができたり。
逆に通り側の4部屋は部屋と部屋との仕切りが襖のみとなっていて、これを取ってしまえばこのように広大な空間を手軽に作ることができます。最近では宴会場として使われていたことを彷彿とさせますが、いかんせん人の気が全くないのがなんか不思議。
あと建物は南向きに建っているので日当たりはめちゃくちゃいいです。それを活用して、通り側の廊下部分では洗濯物を干されていました。
古い建物の窓際といえば欄干があるのが特徴で、外側から確認できた欄干がこの通り残されています。
ふじのや旅館の素敵なところの一つとして、昔の写真が残されているところが挙げられます。
建物としては確かに歴史があり、昔から古いままで残されている旅館がある一方で、では昔はどのような感じだったのか?ということが資料として残っているところは、実はほとんどありません。建物以外だと家具(箪笥とか)や展示品(掛け軸とか)などはそこそこあるんですが、それだけだと当時の生活を思い起こすのはちょっと難しい。
でも、ふじのや旅館には創業当時をはじめ複数の白黒写真が現存しているというのがもう貴重そのもの。しかも昔の写真にしては解像度がかなり高いし、じっくり眺めていて色々な発見がありました。
まず、ふじのや旅館は色々な商売に手を出していたということ。
最初は割烹料理屋でその後に旅館業を始めたらしいのですが、ご主人のお話と写真の様子を見ると「蕎麦屋」の文字があったり、塩を販売していたりなど商店の側面もあったようです。
さらに右手の方には人力車も確認でき、戸隠の方まで客を乗せて運んでいたという話も伺うことができました。これだけ様々な業種に手を出していたということは、創業当時はかなり賑わっていたことを連想させます。
建物だけでなく、昔の写真やご主人のお話によって、まるで自分が過去にいるかのように思えてくる。
すぐそこには今まさに電車が発車しようとしている黒姫駅が見える。昔は駅から下りた客がこの旅館に直行してきて一泊することが多かっただろうけど、時代が変わった現代ではその面影はわずかにしか見えない。しかし、電車の管轄が変わった今でもふじのや旅館はこの地で営業を続けている。
おしまい。
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