温泉が好きな人、旅館に泊まるのが好きな人にはもとより、観光雑誌や旅行記事にもよく登場することから旅関係の趣味を持たない人にも広く知られているような場所。そういったいわゆる誰もが知っている温泉宿というものがあります。
そんな旅館は全国に多いものの、泊まるのを先送りにしていると未来永劫に泊まることがないまま終わってしまうような気がしたので、以降は保留せずに泊まりたくなったら泊まりにいくというスタイルで過ごすようにしました。
そう決めたのが2年ほど前のこと。あれからずっと行きたいまま心の内に秘めていた法師温泉 長寿館に遂に泊まることができました。
憧れの旅館
法師温泉 長寿館は国民保養温泉地に指定されている温泉で、開湯は弘法大師(空海、774-835年)巡錫の折の発見と言われています。法師温泉という名もその背景から名付けられたもので、つまり現時点で1,200年もの歴史を持つ温泉ということになります。
温泉と名が付いてはいるものの温泉街が形成されているわけではなく、旅館としては長寿館のみが存在しています。このあたりも一般的な○○温泉とは異なる点で、法師温泉の名を冠する宿は一つしかないというのがどこか特別感を感じさせてなりません。
赤城山の麓の高原を過ぎ、関越自動車道の月夜野ICを降りて西へ向かうにつれて次第に山間部へと道が続いていく。
やがて道は片側一車線から車がようやく1台通れるような狭路(県道17号)に変わり、山道をひたすら上っていくと、突然視界が開けて堂々たる木造建築が目に入ってきました。
車を降りて建物に近づいていくにつれて、その存在感がさらに強くなってきます。これだけの山奥にあるとは思えないほど荘厳な雰囲気を感じさせつつも、全体としては侘び寂びを体現したような味わいが漂っている。
まずは受付を済ませてお部屋に案内してもらうことにしました。
木の引き戸を開けて屋内へ上がります。
玄関周辺には常に係の方が一人常駐しており、履物の管理や体温計測をご担当されているご様子でした。
玄関を入って目の前に飛び込んでくるのがこの吹き抜けで、玄関のすぐ真上にある2階部分をぶち抜くように大きな空間が確保されています。
やはり玄関というのは広ければ広いほど良い。
広いというのは精神的に安心する上で重要な要素を占めている気がするし、ここまで3次元的に広いと屋内に入ったという感じが全くしません。屋外から屋内へ入るとどうしても視界に入ってくる風景の奥行き感が制限されてしまうため、どことなく圧迫感を感じてしまうものですが、ここに限っては開放感そのものという感じ。
この吹き抜け部分には神棚や達磨、それに歌人の書額が飾られています。
吹き抜け部分の中央には畳が敷かれていて、そこに座って視点を上の方に移して色々眺めているだけでも気分が落ち着ける。
そんな落ち着ける理由の一つが、玄関の横にある囲炉裏。
今どき囲炉裏が現役で使われている旅館は、探してもあまり見つからないと思います。そもそも今日で囲炉裏の出番があるのは主に秋とか冬の寒い時期だけなので、宿のスペースの一部を常時それに充てるのはなかなか難しいのではと。自分もここに囲炉裏があるなんて、実際に見るまでは信じがたいほどでした。
話によるとこの法師の囲炉裏は一年中使われているらしく、今回の滞在中の僅かな時間でさえも常にパチパチと薪が燃えているのを見ることができました。沸騰した湯による蒸気で蓋がカタカタと鳴る音も聞こえてくるので、気になった人が次第に集まってくる。
宿=個室というプライベート空間の中にあって、この一角は宿泊客同士でのコミュニケーションの場としても活用されています。
昔ながらの生活様式が今もそのまま残されていて、玄関周辺を見て回るだけでも満足できるレベル。ちなみに鉄瓶のお茶は湯が沸いていれば飲むことができるので、ふと時間を忘れてのんびりすることもできます。
客室
次は今回泊まった部屋へ。
この法師温泉の建物は、上記に示すようにいくつかの棟で構成されています。内訳は以下のとおり。
- 本館…明治8年に建てられた棟で、長寿館で一番古い。国登録有形文化財指定の客室棟。(今回泊まったところ)
- 別館…法師川沿いに昭和15年に建てられた棟。国登録有形文化財指定の客室棟。
- 薫山荘…昭和53年に建てられた木造2階建ての客室棟で、全室法師川を眺めることができる。
- 法隆殿…平成元年に建てかえられた、木造2階の客室棟。
法師川の東側に位置するのが、先程入ってきた玄関を含む本館と法隆殿。そして本館から法師川を挟んで西に位置するのが別館と薫山荘です。それぞれの棟は渡り廊下で行き来する形になり、雨や雪の日でも大丈夫です。
これらは時代を経るごとに増築されていったものですが、一貫して全棟が木造という素晴らしさを持っています。今までに見てきた本館の良さとうまく溶け合っており、個人的には理想的な増築の仕方だなと感心するばかりでした。
木の温もりは個人的に滞在する宿には欠かせないと思っていて、それで防音や室温が多少犠牲になろうが全く気になりません。特にこの法師温泉に限っては、山奥にある秘湯という鄙びたイメージが木造建築と非常によく合う。
部屋は基本的に番号で管理されていて、例えば本館18番とか別館2番とかいうふうに呼ばれます。
そんな中で実は今回の滞在において狙っていた部屋があって、それはかつて有名な文人墨客が泊まった部屋。法師温泉は文豪や歌人が泊まった宿でもあり、代表的な部屋番号とその部屋に泊まった人物は次の通り。
- 本館18番…文豪・川端康成が泊まった部屋。
- 本館20番…歌人・与謝野晶子と与謝野鉄幹夫妻が泊まった部屋。(今回泊まったとこ)
- 別館2番…映画「テルマエ・ロマエⅡ」の撮影に使われ、俳優・阿部寛も泊まった部屋。
- 薫山荘31番…女優・夏目雅子が泊まった部屋。
- 薫山荘34番…国鉄時代のフルムーンポスターの撮影で、女優・高峰三枝子が泊まった部屋。
自分は古い建物が好きなこともあり、法師温泉で一番の歴史を持つ本館の部屋に泊まりたいという理由から、今回は与謝野夫妻が泊まった本館20番の部屋を選びました。
当然ながら上に示した部屋は特に人気が高く、土日などの休日はまず取れないです。たまたま都合がいい日に目当ての部屋が空いていたのはもう運がいいとしか思えません。平日に絞って探したのもどうやら功を奏したっぽい。
本館20番の部屋は6畳+10畳の二間続きになっており、本館の中でもかなり広い部屋です。
2人で使うのがもったいないほどの広さがあって、明治8年に建てられたとのことですが経年劣化している様子は皆無。むしろ歴史の深さをそのまま凝縮したような、密度の濃さを如実に感じる場所でした。
ここにあの与謝野晶子・与謝野鉄幹夫妻が泊まり、そして月日を越えて自分も同じ部屋に泊まっている。なんとも不思議な気分だ。
通常の旅館なら広縁がある空間にはテラスのようなスペースがあって、ここでくつろぐこともできます。
季節が季節だし、そして山の中での夕暮れ時というだけあってすでに冷え込みはかなりのものだけど、なぜだかいつまでもここに座っていたくなるような居心地の良さがあります。春先なんかだったら、ここで本を読むのもいいかもしれません。
単に構造的な意味だけでなく、この部屋を構成するあらゆる要素が部屋が経てきた年月の長さを物語っている。
内線は黒電話だし、ふと畳に横たわって天井や雪見障子を眺めたりしてもそう思う。もちろん補修は頻繁にやってはいると思うけど、年季が入ってる様子は直に伝わってきます。
部屋に荷物を置いて放心状態になること5分間、やっと浴衣に着替えました。
ここでちょっと余談をすると、旅館に着いてこの浴衣に着替える瞬間が何よりも好き。
単に過ごしやすい服装になるというだけでなく、日中の散策が終わってここから旅館でのひとときが始まるという気持ちの切り替えにもなります。何よりも旅館と浴衣はセットなものだし、浴衣を来ている=宿に滞在している時間だけは平穏な時間を過ごしているという事実にほかなりません。
まずはお茶をすすりつつ、温泉の時間について確認することにしました。
法師温泉の温泉は「法師乃湯」「玉城乃湯」「長寿乃湯」の3つがあり、いずれも今我々がいる本館内に位置しています。それぞれの入浴時間は上の写真の通りで、どれも時間によって男湯と女湯が切り替わるようになっています。法師乃湯に限っては普段は混浴で、20~22時の間だけ女性専用になる感じ。
この図を見るに、長寿乃湯は今日の内しか入れないみたいなので、夕食(18時)までは館内を散策しつつ長寿乃湯と法師乃湯に入ることにし、それ以降については、玉城乃湯に入る以外は自由に温泉タイムを楽しむ方針にしました。
館内散策
続いては旅館内を散策してみることに。
法師温泉の中は、どこを歩いても静けさを感じてならない。
人の往来の有無に関わらず、建物自体がしんと静まりかえっているかのような落ち着きがある。だから散策を続けるにつれて次第に自分の世界に徐々に入っていっているのが実感できるし、ふと立ち止まって外の風景を眺めたりするだけで心が休まってくる。
ここには日常生活の雑念もなければ喧騒もない。あるのはただ鄙びた空間だけ。温泉に入らずとも、好きな人からしてみればこの建物の中に居るだけで満足できると思います。
温泉
次は温泉に入りに行くことにしました。
最初に入りに行ったのは、時間帯的に男湯に切り替わったばかりの長寿乃湯。空間こそ他の温泉と比較するとこじんまりとしているものの、この時間に入りに来ている人が皆無だったこともあってのんびり浸かることができました。
湯船の構造としては湯底に玉石が敷き詰められていて、湯はその底から沸いている足下湧出形式です。温泉というと注ぎ口から湯が注がれているのをイメージしていましたが、僅かな泡とともに湧き出てくる湯を感じながらの入浴は非常に新鮮でした。温度も個人的にはちょうどよく、若干ぬるめなので長い時間入っていられます。
建物も当然のようにすべて木造で、特に湯船周辺は木材が一段と古くて歴史を感じることができました。温泉の温かさのみならず、落ち着ける空間の良さがプラスされて気持ちよさが倍増するという幸せっぷり。特に今日一発目の温泉ということもあり、冷えていた身体が一気に温かくなる気持ちよさは堪えられません。
下駄に履き替えて、本館周辺をぶらぶら歩いてみる。
やはり玄関の雰囲気の良さが群を抜いて好き。温泉旅館ではなかなか見られないほど横に長い引き戸もそうだし、何よりも玄関の前の道が土というのが木造と相性がいい。例えば建物自体は木造なんだけど、周囲の町並みから浮いているというところも多い一方で、ここは山奥という立地を最大限に活かしているように思える。
山間の谷間を流れる川のほとりに建物があって、そこに至るまでの道も狭い山道でという風に、思い返してみれば法師温泉に到着する道のりも含めてすべてが旅館の良さを引き立てている。建物だけ、温泉だけ優れているということではない。
気がつけば一組、また一組と、平日にも関わらず続々と宿泊客が旅館に到着しているようです。それに伴って部屋の明かりも徐々に灯ってくる。
完全に夜になる前に、法師温泉の目玉である法師乃湯に入ってきました。
法師乃湯は長寿館として営業を始めたときにはすでに存在していた湯で、つまり本館と同じく100年以上の歴史があります。
純度100%の源泉が玉石の間から湧き出てきているのは長寿乃湯と同様で、特筆すべきはその広さ。4分割されている浴槽はそれぞれがとてつもない面積があり、さらに中央横に渡された丸太に頭を乗せて浸かることができるようになっています。洗い場などはないのでかけ湯をして入るだけというシンプルさが特徴。
鹿鳴館風のアーチ形状の窓から漏れてくる光は穏やかで、湯船の中で横になっているだけで煩雑な日常がかき消されていくような気がする。相変わらず温度は適温以外の何物でもないので、気をつけていないとのぼせてしまうくらいに快適です。心を無にしてじっくり浸かってみるのがおすすめ。
夕食
部屋の種類によっては部屋食もあるようですが、今回泊まった本館の場合は食事所に集まる形式のようです。
今回の夕食のメインは上州牛のすき焼きです。
実は今回の温泉旅行の設定として、「温泉に入って、ゆっくりしたい、どうせ食べるなら、群馬の食材を食べたい。」と予め決めていました。予約先を調べていく過程で、楽天トラベルにその思いを叶えてくれるプランがあったため、これ幸いと速攻で予約したというわけです。
せっかく中部地方から群馬まで移動してきたのだから、地元のものをいただきたいところ。
このすき焼きがそれはもう絶品で、二人して歓喜に包まれてました。
夕食単体でも幸せすぎるのに、法師温泉を訪れてからの体験の素敵さも合わせっているので絶頂感が休まるところを知らない。いや、ここまで幸福感が持続する体験はなかなかできるものではない。
法師温泉オリジナルの日本酒(秋月)もセットで注文し、酒を片手に夕食を満喫してました。
食事も終わったことだしあとはもう寝るだけなんですが、夕食の内容が質・量ともに濃すぎたこともあり、クールダウンも兼ねて夜の温泉タイムに突入。
最初は夕食後に入ろうと決めていた玉城乃湯へ入りに行きました。ここは内風呂と露天風呂があって、内風呂については仕切りがない広めの湯船が特徴的でした。洗い場は6箇所ほどあるので人数が多い場合でも問題ないようです。逆に長寿乃湯は洗い場が2箇所しかありません。
ひとしきり内風呂を楽しんだ後に露天風呂へ移動。
すでに時間帯は夕方から夜に移っており、気温の低さはかなりのもの。しかし温泉の温かさは変わらないわけで、その寒暖差がむしろ心地よさを増しているように思えてくる。たまに露天風呂から出て近くの岩の上に腰掛けたりすると、たしかに寒いのは寒いけど温かさが持続している影響でそこまで寒くない。
必然的に露天風呂に入る→ちょっと端の方へ出て休む→寒くなる→露天風呂(ryというループが完成してしまって、長風呂が捗ります。内風呂のみだと身体を冷やす手段がないので、個人的には露天風呂の存在は非常にありがたく思えました。加えて、どの宿泊客もまだ夕食を楽しんでいるようで、この玉城乃湯は自分たちだけの貸切状態という素晴らしさ。
「食事の時間帯に入りに行く」というのは温泉旅館へ泊まる際のセオリーみたいなもので、ここまで上手くハマってくれるとは想像外に嬉しい。
この後はもう一度温泉に入るため、再度屋外に出てみたりして冬の寒さを全身で味わっていく。
屋外の寒さと温泉の温かさの差が気持ちよさを何倍にも引き立ててくれるとすれば、1泊2日間でこのループを何回でも味わうことができる。やはり温泉は宿泊して味わうのがおすすめです。
ひとしきり寒くなったあとは法師乃湯に入りに行ったところ、さっきの玉城乃湯と同様にこちらもなんと貸切状態でした。法師乃湯を一人で独占できるなんて、運が良すぎて近日中に何か起こりそうな感じがしてしまうレベル。
いい感じにぽかぽかになってくれたので、そのままの勢いで布団に潜り込みました。
今日は何から何まで良いことしかない1日だったなとか考えてたらいつの間にか寝ていた。旅先での寝付きの良さは、たぶんストレスを微塵も感じてないからだと思う。
翌日は雪
物音一つしない中で自然と目が覚める。
時間は朝の6時。夕食は8時からなので、およそ2時間ほど余裕があることになる。となれば、もちろん朝風呂へ行くしかない。
音から察するに今日の天気は雨かと思いきや、雨6割・雪4割という感じの天気でした。
わかりにくいけど確かに雪が降っている。気持ち肌寒く感じることもあり、どうやら今朝は一段と冷え込んでいるらしい。
それにしても静かすぎる。
昨日の日中、宿泊客がチェックインを済ませて館内を散策しているときの賑やかさが嘘のように、今朝の法師温泉は静寂が支配している。季節は冬、それに現在進行系で雪とくれば、森閑とする様子も冴え渡っているというもの。
個人的には、朝の時間帯を散策するのが結構好きです。
旅館に限らず、旅先での散策もどちらかというと朝にするほうが好き。もちろん迷惑がかからないようにこっそりとやってますが、その場所の1日が始まる前~始まっていく様子を味わうのが好み。朝日が徐々に顔を出して辺りを次第に照らしていくみたいな感じで、段々と視界内の風景に動きが出てくるのを眺めているだけで満足できる。
帳場の人が館内をチェックしはじめたり、起きてきた宿泊客が朝風呂へ行くのを横目で見たりしながら窓越しに外を眺める。この落ち着いた時間の過ごし方が堪らない。
まずは法師乃湯で朝風呂を決め、部屋に戻ろうとしたときに本館ロビー前の展示品が目に止まった。
これらの展示品を眺めていると、法師温泉が辿ってきた歴史を思わずにはいられません。宿の成り立ちや経営、温泉の成分、訪れた人々…年月とともに時代は移り変わっていく一方で、この旅館は今も変わらず様々な人に愛されている。今回宿泊して一夜を過ごしてみて、誰がいうともなくそれが伝わってきました。
朝食の時間。
献立は湯豆腐や温泉卵、味噌汁や焼き魚など定番なものが中心で、素朴な味わいが旅館の朝に似合う。そうしてしんみりと味噌汁をすすっていると、今朝までの至高の時間が夢のように思えてきた。
あれだけの濃密な体験をして、そしてもう宿を去らねばならなくなっている。楽しい時間は本当に過ぎるのが早い。
朝食後は思い残すことのないようにまたしても温泉に入りに行き、雨と雪が交じるなか法師温泉を後にしました。
ここはぜひとも再訪したい。
心からそう思えるほど法師温泉は良い旅館だったし、日常を忘れてただ温泉に没頭したいという気分になれる。この1泊2日間の出来事は生涯忘れられないだろう。
おわりに
いつか泊まってみたいと思っていた法師温泉。
機会に恵まれてついに宿泊できたものの、ここまで期待を遥かに上回ってくるとは思ってもみませんでした。有名過ぎるほど有名どころだし、想定していた内容を簡単に飛び越えてくるほどの満足感が得られました。
建物、温泉、雰囲気、食事とすべてにおいて良すぎる点を踏まえて、温泉でまったり過ごしたいという人には自信を持っておすすめできる宿です。
おしまい。
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