旅館という言葉を聞いてまず想像するのは、日本特有の和風建築の建物だと思う。
それは日本人ならすぐに思い浮かぶであろう瓦屋根だったり床の間だったり、寝るのは畳の上の布団だったりと様々ですが、ここで詳しく書かなくても、旅館と名前がつく宿なら大体どういうものなのか分かると思います。
今回泊まった旅館も外観は完全に和風だったし、館内の散策をしなかったら自分もその認識のままで終わっていました。ですが、蓋を開けてみればこの旅館は和風に加えて洋風な側面を持つ、極めて特殊なところでした。
その旅館は、福島県南会津町の会津田島にある和泉屋旅館。館内の随所に広がる和洋折衷感は、この旅館が辿ってきた歴史がもたらしたものでした。
外観及び歴史
まずは、この和泉屋旅館の成り立ちについて。
- 創業は昭和8年(1933年)で、疎開児童がかつてここに泊まったことがある(そのときの写真も残っている)。建てたのは今の女将さんの祖父。
- しかし、建ててから半年後に南会津全体を大火が襲い、この南会津で唯一の瓦屋根の建物だったここを祖父の判断で壊して火事をせき止めた。当時は民家の屋根といえば茅葺きで火の回りが早かったものの、このおかげで火事は和泉屋旅館で止まったという。今の建物は、その後に再建したもの。
- 戦後にはGHQ(進駐軍)の指定旅館に選ばれた。
- ある時、祖父が初代の参議院議長である松平恒雄(会津若松出身で、女将さんの祖母が見習いに行っていたので繋がりがあった)を和泉屋旅館に泊めたいと考えるようになり、そのための別館を建設することになった。しかし、増築するにはGHQの許可が必要になるということで、別館は1階を洋室にし、2階を和室という構造にした。
このように、和泉屋旅館にはかなり濃い歴史があります。
特に、別館の建設の際には進駐軍指定旅館であることを踏まえて一部を洋風にしたのが最大の特徴で、その雰囲気は唯一無二のもの。他の旅館にはない独特の空気が漂っていました。
本館1階の散策
本館正面玄関周辺
先程説明した「本館」「別館」という通称は自分が勝手にそう呼んでいるだけで、女将さんに伺ったところ明確な名称はないそうです。しかし、説明がしやすいので便宜的にこの通称を使用することにします。
国道121号に面しているのがその本館です。堂々とした玄関と、2階のガラス張りになった窓が遠目からでもよく映えているのが分かります。
玄関をくぐって中に入ると、横に長いタイル張りの土間の上に空間が続いていました。
正面には建物奥に続く長い長い廊下があり、その横には2階への階段が、その横には南会津のことが展示されているスペースがあります。さらに、玄関土間の隅にはかつての靴箱があって、昔はここに靴を入れていたことが分かりました。
玄関付近に飾られているものの中には「登録有形文化財 第07-0030-0031号」の証があります。番号的にもかなり若く、早い段階で登録されたことが伺えました。もっとも、この旅館の貴重さを考えればそれも当然と言ったところです。
玄関のガラス戸のガラスのうち、昭和8年当時のままなのは右端のものだけでした(ユラユラしている)。他のものについては当時から今までの間に割れてしまっていますが、木枠はいずれも当時から変わっていません。
屋内に入る前に、この土間がどうしても気になってしまった。
タイル張りなのはタイル張りなんですが、そのタイルが今まで見たことがないような細かいものになっています。特に土間の側面部分はまるでお風呂の内壁に使用するタイルのような大きさと色合いで、個人的には珍しいと思う。土間の形状も1段ではなく2段になっているし、パッと見だと土間だとは気づきにくい鮮やかさを感じました。
話によるとこのタイルはもう存在しないのと、製法がないので同じものが作れないため、壊れたら元に戻せないものだそうです。
ちなみにタイルの一部がひび割れているのには理由があって、旅館の前の通りで流雪のための水路を敷設する工事を行った際に、その振動で割れてしまったとのこと。
2階への階段のちょうど裏側には、女将さんや大女将さんがいらっしゃる居間がありました。
居間へは玄関方面と廊下からの2手からアクセスすることができて、しかも外部へ繋がる小さな玄関もあります。今の一面は中庭に面していて、全方向に戸がある開放的な造り。
中央には囲炉裏が現役で使われていて、そこに吊るされている鉄瓶(南部鉄器)は「和泉屋」の文字がある特注品でした。この旅館を建てたときに一緒につくったものだそうですが、鉄瓶が旅館の名前を冠しているというのが素敵すぎる。
本館1階の廊下
ここから本格的に本館の散策をはじめていく前に、本館の見取り図を示しておきます。
玄関から延びている長い廊下の時点で察しはついていたのですが、この和泉屋旅館はいわゆる「うなぎの寝床」で、表から入って奥に長い構造となっていました。
しかもこの本館の奥に更に別館が伸びていて、女将さんによれば玄関から別館までの長さはなんと90m!。これだけ長い廊下を備えているなんて外観からでは絶対に分からないだけに、この事実が明らかになったときには興奮してしまった。
1階は先程拝見した居間から中庭を挟んで調理室があり、その奥がトイレと浴室になっています。その向かいは洗面所で、自分もここをよく利用しました。
2階については基本的にすべて客室になっていて、玄関正面にある大きな階段のほか、調理室の向かいにある階段から向かうことができます。
散策の順路はまず1階を歩き、それから2階に行ってみることにしました。
本館1階の部屋は廊下を直進した先にあり、廊下自体がかなり長いこともあって歩いている最中に色々な風景が見えます。
玄関を上がって少し進めば左手に居間が見え、更に進むと中庭が、その奥には調理室が次々と登場してくる。自分としてはただ真っ直ぐ進んでいるだけなのに、敷地を贅沢に活かした構造が建物内の眺めに彩りを加えている。
曲がり角が多く、廊下を曲がるたびに新しい景色が登場してくる旅館はそれはそれで楽しいもの。しかし、これだけ見通しがいいのにも関わらず建物内が一様でないという点が個人的にグッときました。
そこから先へ進むと突き当りとなり、付近には浴室やトイレ、洗面所があります。
個人的に好きなのが、ここから玄関側を振り返った眺め。視界内には電話室や洗面所、2階への階段に加えて、遥か遠くに光で照らされた玄関が見える。この和泉屋旅館の広さが非常によく分かる画角の切り取り方になっていて、建物としての奥行きを感じられるのが本当に素晴らしい。
あと、調理室への2箇所の入り口にかかっている暖簾が風が揺れるのが琴線に触れた。
これだけぶち抜きで廊下が走っていれば風の通りも当然ながらよく、そこを流れてくる無音の風が音もなく暖簾を持ち上げている。この静かな時間が好きで、何も用がないのにずっとここに座っているくらいでした。
突き当りを右に進めば洗面所があります。
自分が泊まっている部屋から一番近い洗面所にあたるので使用回数も多く、その居心地の良さが印象的でした。水が流れる部分はタイル張りになっていて、洗面所の床を成している木の板との色合いの差がまぶしい。
それでいて窓や戸が占める割合が多く、顔を上げたらすぐ壁になっていて圧迫感を感じる、ということもなかったです。鏡が前後の2箇所にあるのも凝っていてグッド。
本館1階の客室
その洗面所の脇にはさらに廊下が奥へと続いていて、その廊下の右側に本館1階の客室が3つ並んでいます。
ちなみにこの廊下の境界部分には大きな段差があって、しかも少し暗がりになっているので慣れていないと脚を踏み外すと思います。
今回泊まったのは、その客室群の2つ目にあるNo.12の部屋。
入って正面に床の間があり、右手にはすでに布団が敷かれていました。
床の間周辺の木材は表面に照りがあるなど高級そうな感じがして、床板も一枚板だったりして素人目線で見ても普通の部屋ではない。聞くところによると、和泉屋旅館を建てた女将さんの祖父が腕のいい大工に作業を頼む際、「作りたい材料が手に入ったときに、作りたいものを作ってくれ」という形でお願いしたそうです。
つまり現代のように納期重視の方針ではなく、あくまで大工が作りたいものを自由に作らせたことで、ここまで細部まで凝った建物が完成したということ。祖父の方がもともと大らかな性格だったとのことで、この和泉屋旅館にいるとそれが随所に現れている気がします。
部屋の構造は昔のままで、エアコンなどはありませんがコンセントは最初の建築の段階で付けているようでした。
また、特徴的なのが窓に網戸がないこと。
引き戸が左右にあるだけでサッシなどの近代的な要素がなくて、この点だけでも現代の宿として非常に珍しい。今回の投宿は夏の時期でしたが、この窓を開けっ放しにしていると部屋の温度がちょうどいい感じになってくれました。南会津は夏でもある程度涼しいので助かる。
窓から差し込む陽の光もまた柔らかくて、布団の上に延びる光がまぶしい。
その他の客室については、洗面所の隣がNo.12と同じく一人でちょうどいい広さで、一番奥が二人用の客室っぽい。
いずれも布団が干されていたりすでに敷かれていたりと、突発的な宿泊にも対応できるようにしているようでした。
本館の廊下をそのまま直進していくと、別館へ繋がっています。
本館2階の散策
本館2階の廊下
本館1階の散策はこれで切り上げ、次は2階へと進んでみました。
1階の玄関まで戻り、玄関正面にある大きな階段を上がって2階へ。
なんとなくですが、旅館といえば玄関を入ってすぐ正面に階段があることが多い気がします。全部がそういうわけではないけど、靴を脱いでからの客側の動線が分かりやすいような構造になっている気がする。
その階段を上がった先が本館2階です。大通り側から見たときに2階に見えた部屋も実は客室で、階段を上がって手前側に物置を挟んで2つ客室があります。
そのまま廊下は先へと繋がっており、廊下の右側は少し新しめな壁を挟んで客室が、左側は中庭に面した窓になっています。
この廊下の雰囲気が自分は好きで、特に廊下が古くて黒く光っているというのがいい。そしてそれが張り替えられていたり上からカーペットなどを敷かれているといったわけでもなく、当時のものがそのまま使われている、という点に好感が持てます。
というか、廊下の手入れはどのようにされているのだろう。流石にずっと放置しているわけではなさそうだけど。
また、廊下の窓に面した部分にはソファが置かれていて、ここに座ってくつろぐこともできます。窓は欄干が残っていて全体的に見通しがよく、そこから入ってくる光が廊下に反射している様子が見事でした。
そこから先は棟が切り替わり、浴室や調理室がある1階へと続く階段が現れてきます。
ここを左に曲がるとまた別の客室があって、その手前には戸がありました。
本館2階の客室
本館2階廊下の右側に並んでいる客室は上の写真のとおりで、部屋の手前に押し入れがあり、奥が窓になっています。
また、廊下の奥にある二間続きの客室は二面が障子戸になっていて、部屋の手前側と奥側の両方から部屋に入ることができます。
二間続きということを考慮してもかなり広く、しかも風通しもいいので居心地がいい。
日本の伝統家屋は部屋における壁の割合が少なくて音が聞こえやすかったりしますが、逆に言うと戸を開けっ放しにしておけば風の通りが非常にいいということ。特にこの客室のように二面が障子戸になっているとなおさらで、窓から入ってくる風が気持ちよく抜けていくのが実感できます。
めちゃくちゃ暑い季節だとそれだけでは厳しい面もあるものの、先程も書いたように南会津は夏でも比較的涼しいので、今回の訪問時でも暑さを苦に思うことはそんなにありませんでした。
その客室の奥へ進むと、廊下を経て洗濯物を干す場所っぽくなっています。
この場所は当初からあったものではないようで、手すりや壁のようなものがなくてかなり危険でした。1階へ下りるはしごが立て掛けてあったくらいで、雨の日なんかはもう相当危険だと思います。
大広間
その客室の奥、別館方向への部分も客室になっているのかと思いきや、実は大広間になっていました。しかも宴会を催すような感じではなく、何かの舞台を演じるのが前提となっているような造り。
ただ館内には他にこれほど広い部屋はなかったことから、普通に宴会用として使われることもあるのかもしれません。
大広間の前を右に進むと、旅館では珍しい踊り場付きの階段があります。
この階段は1階の電話室の隣へと通じていて、先程見た2階の客室隣の階段と出口は同じ。動線がはっきりしている分、1階から2階への行き来はかなり分かりやすいと言えます。
この階段も構造が凝っていて、踊り場には大きな鏡が、階段の手すりには洋風の模様が施されていたりとしっかりしていました。斜度もそこまで急ではなく、例えば江戸時代の旅籠のそれと比べると明らかに時代が違うのが実感できます。
そして、大広間の様子はこんな感じ。
向かって左側は窓で、右側には床の間のような構造になっていて調度品が置かれていました。舞台については、幅こそこじんまりとしているものの丈夫な床板が敷かれており、かつてはここで数々の演目が舞われたことを想像させます。
大広間だけあって奥行きが相当長く、というか大広間の存在自体が1階の散策時には想像できないほど。個人的な旅館の楽しみ方の一つに散策が挙げられるけど、ここまで散策していて楽しい旅館はなかなか出会えるものではない。
大広間の奥にある窓からは別館の建物が確認できました。
普通に本館の中から歩いて向かう前に、こうして本館の散策中に次に向かう目的地がちょっと視認できるというのが実に探索感がある。館内は広く、ただ歩いているだけでも様々な発見があって面白いのが和泉屋旅館の特徴の一つかもしれない。
別館1階の散策
ここからは本館を離れ、別館の散策をしていきます。
別館1階の廊下~階段
別館があるのは、自分が泊まっている部屋を含む本館1階客室群のさらに奥。
正直、客室部分だけでも大通りからするとかなり奥まったところにあるのですが、別館はそれよりも深部に位置しています。もともと別館が建てられたのは本館より後という背景はあるものの、うなぎの寝床構造を体現したかのような建物の配置になっているのが分かります。
客室群から別館までの間にも長い廊下があって、この廊下の左側面には窓のほか、ショーウインドウのような展示スペースが設けられています。
窓の外には蔵があって、窓のすぐ脇には外へ出るための扉もありました。展示スペースにはこの南会津における一大祭りの「会津田島祇園祭」のポスターが貼られていて、女将さんが語ってくれたお話の一端にもこの祇園祭の件がありました。なんでも、本祭での花嫁行列がそれはもう見事なものだそうです。
廊下の反対側には「浴室」と書かれた扉があり、中には大きな浴槽があります。昔はこちらをお風呂として使っていたそうで、今では倉庫のように使われているようでした。
こちらの使用を止めて現在の調理室横にあるお風呂へ切り替わったのがいつ頃なのかは、正直定かではありません。おそらく昔はこの大きなお風呂を客が使って、旅館関係者の方は調理室横のお風呂を使っていたんじゃないかなと思います。
その廊下の奥がいよいよ別館となって、最初の分岐を右へ進むと別館1階の客室が、左へ進むと階段を経て2階へと行くことができます。
この分岐の時点でなんとなく予感はしていたけど、話の通りここから先は和と洋が入り交じる特異な空間になっていました。
初っ端からそれを感じさせるのが、別館の階段です。
これが日本の旅館かと目を疑うような特徴的な構造をしており、最初の階段は逆V字形。それを上った先は踊り場のような立ち位置で、そこから左側にはV字形の階段が2方向に分かれていました。
1つの出発点から2方向へと繋がる階段は本館にも一箇所あったものの、ここではそれに加えて洋風な造りが全面に押し出されている。しかも、この対称的な階段が廊下の真正面にあるのではなく、向かって左側という側面にあるのも珍しいと思います。踊り場に設けられているドアには十字の模様が設えられていて、まさに外国の建物という感じ。
別館の構造としては、1階/2階を問わずに建物の手前と奥に廊下が通っていて、客室はそれらの廊下に挟まれた中間部分に位置しています。最初の踊り場では1階の奥側の廊下に行くことができるので、つまり客室には2箇所の入り口があるということになります。
具体的に言うと、別館の部屋配置は上に示す見取り図のような感じ。
1階には客室が2つ、2階には3つあって、それぞれの廊下からアクセスが可能です。入り口が1箇所しかないのと比較すると部屋に閉塞感が生まれにくく、逆に開放感を感じられることを考慮すると、最初からそれを狙ってこのような構造にしたのかもしれません。
最初の階段を少し上がり、踊り場をスルーしてそのまま向こう側に下った先には洗面所やトイレ、それに中庭への出入り口があります。
中庭は1階奥側の廊下に面した比較的大きなものでしたが、これはどうやら、別館からすぐ裏手にある車道へ出るための通路ではないようです。車道に面した塀にも門や玄関らしきものはなかったし、あくまで別館は本館から廊下を経由して訪れる場所という扱いみたいでした。
ただ、旅館の方は別館入口付近の蔵に面した勝手口から出入りをされているのを見かけたので、外から別館に入る際の最短ルートはこれっぽいです。
別館1階の客室
今度は、別館最初の分岐までひとまず戻り、分岐を右へ進んでみることにしました。
先程の見取り図で確認した通り、1階には客室が2つあります。
「別館1階の客室は洋風にした」の言葉のままに、そこは旅館とは思えないほど"洋"な空気が漂う客室になっていました。横にはベッドがあり、壁の側にはこじんまりとした木製の机。壁も和風ではない壁紙のようなものが貼られていて、足元付近の壁は木で構成されている。
「ドアを開けたら90年代のアメリカにワープしてました」と言ってもそのまま通じるんじゃと思えるほど、投宿前に外から眺めた本館の外観からではとても想像できない。しかも、当時から何も変わっていないというのだから尚更タイムスリップ感が強い。
ちなみにベッドについては病院からもらってきたもので、昔は鉄製だったみたいです。これは当時の南会津では民家にベッドというものが存在しておらず、病院くらいしか置いてなかったため。
洋風だということは予め頭では理解していたとしても、ここまで本館との剥離があると脳が混乱してしまう。
でも、本館も別館もあわせて一つの和泉屋旅館であることは事実であるし、この和洋折衷感は他では味わえないもの。歴史的な価値も非常に高く、そこに自分が泊まることができたということがもう嬉しくて仕方ないです。
洋No.1の隣りには洋No.2の客室があり、こちらは少し広めで二人用の客室となっています。
ベッドも2つ並んで置かれていて、洋No.1のように机はないですが、その分真ん中の通路部分が広くなっていて通りやすい。2つのベッドがこのように離されて置かれているというのもかなり珍しくて、ホテルなんかだと並んでいるものがここではそうではない。向こう側にも出入り口があることで、通行しやすくするためにこのような配置になっている。そういう配置の意図が見えるようでなんか面白い。
この洋室の内装は旅館ではなかなか見ることができないだけに、色んな部分に着目してしまった。ドアの木枠だったり、壁のくぼみを縁取っている木の装飾だったり。床材についても、まるで体育館の床みたいな木の継ぎ方をしていて興味深いです。
その壁のくぼみには黒電話のほかに、当時使われていたと説明書きがある古びたラジオが置かれていました。下部にダイヤルが4つほど付いている見た目をしていて、もちろんどうやって使うのかは分からない。
でも、これはもう役目を終えた品なので迂闊に触るようなものではないです。説明書きにも書かれているけど、というかこの別館を構成するすべてのものが過去から今まで奇跡的に残っているようなものばかり。
こうして見学できるだけでも感激するくらいだし、遠目から見ているだけで満足でした。
会議室
別館1階で残すところは一番奥に位置する部屋。
事前情報無しで客室、客室とくれば次も客室だと思うのは至って当然のことで、実際自分もそうだと思ってました。
しかし、この部屋は他の部屋とは用途が明らかに異なっていたのです。まず部屋の入口が他の2部屋のように片開きではなく両開きだし、上に示されている部屋の名前が、
Grill。(???)
一般的な意味だとGrillって直火焼きとかそういう意味で最初はわけわかんなかったんですけど、女将さんによれば、Grillには会議室という意味があるそうです。
調べてみると〔人を〕厳しく尋問する[追及する]、質問攻めにする、みたいな用法があって、これが会議室という意味合いに変わったのかもしれません。どんな皮肉だよ。
その内部がこんな感じ。想像以上に会議室で正直面食らってしまった。
いや、旅館内に会議室…?と普通なら疑問に思うところ、別館は和泉屋旅館が進駐軍指定旅館だった最中に建てられたものなので、こういう部屋も施設として必要だったのでしょう。
指定旅館ということは宿泊だけを目的にしているとはちょっと考えづらいし、ここで実際に何かの会議をしたのかもしれません。ご覧の通りGrillは結構な人数が入れるほど広いので、様々な会合なんかにも役立ったと思います。
この会議室内の椅子、机、壁のランプや天井の装飾、ドアの板から蝶番に至るまで当時のままです。
壊れそうだったので流石に椅子には座りませんでしたが、ドアを開け閉めしたり意味もなく歩いてみたりと、この部屋を一通り堪能してみました。ここには当時と同じく重苦しい空気が漂っている一方で、見方を変えてみればすぐにでも会議を始められそうなほど変わっていない、とも言えます。
宿泊には直接関係ないだけに閉鎖しても問題ないところ、現代もこの部屋を保存している旅館の方の努力には頭が下がるばかりでした。
別館2階の散策
別館1階の散策はこれで終了し、続いては2階へ。
先程のV字形の階段のとこまで戻り、今度は階段を上がって右手(建物奥側)に向かいます。
別館2階には和風の客室が3つあるものの、2階の見どころはそれだけではありません。階段を上がってすぐのところにある「応接室」の雰囲気が良すぎて、例によってここでまったりしてました。
この応接室の存在は別館をじっくり散策していないとなかなか気がつけず、しかも、ドア自体がトイレの隣りにあるので意外と分かりづらかったりします。
応接室と書かれた字の"応"は旧字体になっており、この時点で新字体が普及し始めた昭和24年(1949年)より前の建築であるということが分かりました。
これがその応接室の中です。
こじんまりとした小さな部屋の中には丸机や椅子が配置されていて、応接室というよりはカフェの一室のような時間の流れを感じる。机を挟んで向かう合う形ではなく、丸机を囲む形になっているので互いの雰囲気を丸くするのに効果的な気もしました。
天井の高さや壁と壁との距離を考慮すると比較的窮屈そうな印象を受ける一方で、椅子に座る高さだとそうでもありません。昔の日本人の身長だと、これくらいがちょうどよかったのかも。
応接室のうち、2面は窓付きになっていて採光も十分確保できます。逆に夜や密談をしたい場合などはカーテンを閉めて運用することも可能で、これまた色んな用途に使えそうで便利。
間違いなく言えるのは、自分のように狭いところが好きな人にとってはとても居心地良く感じる場所だということ。ドアを開けて一段下がったところに部屋があるというのも好きなポイントです。
また、ここまでは敢えて触れていなかった別館のドアノブ。別館は洋風ということで、大半の出入り口にこのドアノブが設置されています。
これを実際に掴んだときの感触がまた絶妙で、なんかいつまでも握っていたくなるくらいに丸みを帯びている。金属部分は思った以上に細いので乱暴に扱うと折れそうで怖いですが、こんな古いドアノブでも問題なく機能しています。ドアを締めたときにカチャンと音がして閉まってくれるのがなんとも頼もしい。
場所は手前側の廊下に移り、別館左手方向へと進んでいく途中で窓からの景色を眺めてみました。
一番奥に見えるのが本館で、そこから自分が通ってきた廊下の部分が外部から視認できます。紺色の屋根の部分が廊下で、手前に見える緑色の屋根の建物が昔お風呂だったところ。そして、廊下は本館と別館との間にある水路の上を通り、別館まで伸びているようでした。
女将さんによれば、水路の上に建物を建設するのは普通ならNG(水路は公共物なので)なところ、進駐軍指定旅館として扱われているからという理由で当時は特別に建設が許可されたようです。廊下を歩いている最中は水路の存在に全く気が付かなかったけど、そういう背景があったとは。
その廊下を進んでいくと、別館2階の和風な客室があります。
1階の洋風な客室とは対称的に、2階は本館と同じく完全な和風建築。同じ建物内でこれだけ温度差があるという特徴が、和泉屋旅館の別館を別館足らしめている要素の一つじゃないでしょうか。
別館2階の客室については、別館を建築した元々の理由の通り松平家が宿泊した歴史があります。それだけに内装は一際凝っていて、特に床の間の豪華さが群を抜いていました。
まず中央の床柱がめちゃくちゃ太く、その横の違い棚や天袋、地袋も造りがしっかりしている。違い棚には海老束が使われているし、地袋も二段に分かれていて複雑。廊下との壁には当然のように付書院があって、この一角だけ見ても泊まる人の位が高いことが窺える。
別館を散策していて感じたことが一つ。
この空間にいると、自然と力が抜けていくような感覚になる。
足の裏の感触を通じて、廊下の板材の硬さや畳の柔らかさを感じる中で、この別館は建物として本当に頑強なことがよく伝わってきました。なので脱力して身体を預けていても心から安心できる。
すべてが木ができた木造旅館ではあるけど、その強さは時代を経ても変わらない。この時代の建物の良さがまた一つ理解できたような気がします。
先に述べた女将さんの祖父が持っていた建物づくりの考え方、それがあったからこそここまで素敵な旅館が完成したことを改めて感じるし、やはり旅館は自分が大切にしている「旅における人の存在」をダイレクトに実感できるところだ。
夕食~翌朝
そんな風に過ごしているといつの間にか夕方になったので、半ば放心状態で自室へと戻り、お風呂を済ませて部屋で待機してました。
食事は部屋出しで、部屋で待っていれば持ってきてくれます。
和泉屋旅館の食事は郷土料理が中心で、山菜、馬刺しやナスなど、どれをとってもおかずとして強力すぎる品ばかり。
しかも白米のほかに蕎麦があって、夏らしくさっぱりとした印象を受けました。地酒はすぐ近所にある国権酒造のお酒で、これが美味しい料理によく合う。素材がいいのか調理方法がいいのか、たぶんその両方なんだろうけど、とにかく酒との相性がよすぎる内容でした。
味付けはあっさりとした薄味で自分好みだし、何から何まで美味しいとはまさにこのこと。夏バテって何?ってくらいに食欲が湧いてくるのは、自分が夏に慣れたからだけではない。
夕食が終われば、あとはもう寝るだけ。
すでに述べた通り客室にはエアコンや網戸はありません。比較的涼しい南会津とはいっても窓を開けないと少し寝づらいということで、女将さんから支給されたのは豚の造形でおなじみの蚊遣豚でした。これは嬉しい!
蚊遣豚(正式名称を実は知らなかった)って夏の風物詩みたいに思われてるけど、実際に使ったことがある人はたぶん少ないと思います。現代ではそもそも蚊取り線香を使う機会がそれほどなく、久しぶりにその姿を見れてなんか感動しました。
この蚊遣豚と夜の最低気温が21℃という快適さ、それにうなぎの寝床構造で大通りから客室が遠く、音や振動があまり響いてこないというメリットが相互に作用してくれて結果的には安眠できた。
和泉屋旅館は建物の趣深さだけでなく、食や住についても快適そのものでした。
翌朝は夕食と同じく部屋出しで朝食をいただき、白米を何倍を消費してしまう。白米単体でも美味しいのにおかずも美味しいので、消費量が多くなってしまうのはこれはもう仕方ない。
最後は女将さん達に何回もお礼を良い、また投宿することを夢見ながら旅館を後にしました。
おわりに
和泉屋旅館は食事の美味しさもさることながら居住環境としてとても優れており、古い宿だから大通りからの音や振動が…という心配も薄い点が旅館としてまずおすすめできるポイントです。特に、建物の奥に行けばいくほど物音は皆無になってくるので、思い思いの時間を過ごせるはず。
散策が好きな人にとっては言うまでもなく、どこを歩いても、どこで立ち止まっても違う景色が見えてくる。
そこには和風に加えて洋風があり、木材の確かな温かみを感じる部屋や廊下に出会うことができます。女将さんをはじめとした旅館の方々も非常にご親切で、貴重なお話をたくさん伺うことができました。本当にありがとうございました。
ここは、ぜひともまた泊まりに来たいです。
おしまい。
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