今回の舞台は島根県。
島根県内にはとにかく温泉が多く、しかも自分が好きな静かな風景がいたるところに広がっていることから、再訪する率が年々高くなっている県です。自宅からでも比較的行きやすいところにあって、それでいて時間や季節を問わずに満足する時間を過ごすことができる。今回も、そんな場所を目的に島根県を訪れました。
歴史ある温泉地へ
今回泊まったのは、雲南市木次町にある湯村温泉 湯乃上館。
湯村温泉の歴史はとても古く、聖武天皇に奏上されたといわれている出雲国風土記(733年)にも、玉造温泉とともにその名が示されているほど。"漆仁の川辺の薬湯"として登場したその温泉には今でもこんこんと湯が湧き出ており、その湯量は非常に豊富です。
島根の山中を走る国道314号に沿って流れる斐伊川。
そのほとりにそっと佇む湯村温泉は、この湯乃上館を含む2件の宿と一つの共同浴場から形成されるこじんまりとした温泉地です。事前情報がないと思わず通り過ぎてしまいそうになるくらいに静寂なこの空間は、世俗から離れて落ち着いたひとときを過ごすにはもってこいのもの。
そんな場所に湯乃上館は位置しています。
確かに地図上だけで確認した限りでは閑静な雰囲気がなんとなく伝わってきたのですが、実際に泊まってみると予想以上に心地よい旅館でした。
湯乃上館の創業は、なんと明治6年。
元庄屋の建物で、少なくとも江戸時代から建物そのものはあったはずだがこの辺りはとにかく洪水が多く、その際に流されてしまっていて文献などは残っていません。
当時から残るのは建物のみならず土台部分にも及んでおり、インパクト抜群の石垣も江戸時代から変わっていないそうです。
今までの宿泊では古い建物ばかりに目がいってしまっていたものの、それを支える地面もまた建物を長持ちさせる上で重要なのは間違いない。ましてやここ一帯は水害の影響が多い土地とのことだし、それを乗り越えてきた石組みの技術は今でも十二分に有効だということ。
旅館に入る前にざっと通りに目を通してみると、ここにも水害の様子が見て取れました。
直近の今年7月6日から島根県全体を襲った大雨の影響がここにも及んでおり、湯乃上館も被害を受けたといいます。幸いにして湯乃上館は1階部分の浸水で済んだのに対し、旅館より低い位置にあるこちらの通りでは水が溜まっていたとのこと。
よく見てみると壁に変色があったので、この高さまで水が押し寄せたということでしょうか。
とはいえ、ここまで早く復旧できたのは何よりです。
館内散策
予め伝えておいた時間ちょうどに旅館に到着し、ご主人にご挨拶して宿泊開始。
旅館に入る前に、改めて旅館の外観を確認してみます。
建物としてはメインとなる母屋と、その右隣りにある囲炉裏の部屋から構成されています。
囲炉裏の部屋は夕食の会場となっているものの、ここを夕食時に使うことができるのは1組だけで、残る1組は部屋出しとなります。この湯乃上館は1日2組限定の宿となっていて、電話予約時に先に囲炉裏の利用を指定した方しか利用できません。つまり先に予約したもの勝ち。
この囲炉裏での食事がなにものにも代えがたいほど素敵な体験だったので、個人的にはぜひとも夕食は囲炉裏で食べることをおすすめします。
石段の上から川方向を振り返ると、すぐそこに共同浴場の「元湯 漆仁の湯」があります。
湯乃上館には内湯がなく、お風呂はすべてこの共同浴場を利用する形になります。日帰りの場合はお金がかかりますが、宿泊者の利用は無料。貸切風呂もあるので他人に気兼ねなく入ることもでき、しかも基本的にいつ入ってもいいのだから最高すぎる。
母屋の玄関を入った先は、まず右手に受付があります。
正面には2階への階段があって、左手の戸の先には居間がありました。ただ、居間については浸水の影響で畳を干している状態だったため、特に中に入るということはしていません。これから大工さんに入ってもらうとのことなので、もう少しすれば元に戻るのかも。
客室はすべて2階にあるので、1階は移動のための空間になっています。
階段を上がった先の2階がこちら。
すべての客室はこの廊下に繋がっているというシンプルな構造になっています。
廊下にしては横幅が広く、板間が大きくとってあるのが個人的に珍しい気がする。うまく言えないし説明もできないんですけど、なんというか現代ではあまり見ない建物の造りをしているなと感じました。
館内の灯りは必要最低限に灯されている程度なのに、2階は夕方にしてはかなり明るく感じました。
その秘密はこの窓の大きさ。
屋根から床に近い部分までほぼ一面がガラス窓になっており、しかもその範囲が横に広い。山に面している側とはいっても採光は十分で、電灯ではないぶん「自然のほんのりとした明るさ」が室内に満たされているような気がします。
客室
今回我々が宿泊したのが、階段を上がって左方向の最奥にある「い号」の客室。
客室の番号は「い号」「ろ号」「は号」…という風に振られており、い号の右隣がろ号、左隣がは号という位置づけでした。
旅館における客室は、言うまでもなく旅館を選ぶ上で非常に大切なもの。
旅館滞在中のほとんどの時間をここで過ごすわけだから、何よりも心が平穏に休まることが第一。その観点で見てみると、この湯乃上館の客室は今回求めていた要素が全て詰まっていました。
まず、い号客室は位置的に角に面しています。なので外周に巡っている廊下がまるで周り廊下のように角で折れ曲がっており、畳がある客室のさらに外側に別の空間がプラスされているような広さがある。
本来だったら壁がある床の間横のスペースがそれに置き換わっているために、陽の光もその分多めに室内に入ってきているので明るいです。
広縁と室内を隔てている障子戸もそれを意識しているのか、真ん中の部分が障子でなくガラス戸になっていたりとお洒落感がある。
他にも天井の木や畳の感触なども古さを感じさせて、自分が精神的に安心できているという実感がありました。
なんと言ってもこの広縁の雰囲気が良い。
広縁には単なる窓際の席以上の居心地の良さが確かにあって、客室の延長線上にある空間である一方で客室であって客室ではない。障子戸で明確に仕切られているくらいだし、景色の良さを味わう席として独立した扱いのような気がしている。
でも、この湯乃上館の広縁はその境界が曖昧になっている。
広縁だけ後付されたとかそういう経緯がないからかもしれないが、広縁に行こうと思った際に気持ち的なワンクッションがない。もちろん季節柄、障子戸を開けっ放しにしているくらいがちょうどいい気温ということもあるけど、空間としての一体感が強いというか。
定員5人という客室に2人で泊まるというのも、一人ひとりのパーソナルスペースが十分確保できるという意味で良かったのかもしれない。適度な広さの部屋で、適度にくつろぐ。湯乃上館の客室ではごく自然にそれができる。
湯乃上館自体が石垣の上に位置していることもあって、広縁からは川を挟んで対岸の町並みも視認できます。
島根県ならではの石州瓦の屋根が広がり、その向こうには小高い山。自分がいま山中に居るということを如実に実感できるのはやはり嬉しい。
湯乃上館の客室は全部で5部屋あって、1日に宿泊用で使われる部屋は多くても2部屋のみ。
残りの部屋は全く使っていないのかというとそうではなく、今回泊まった「い号」の左隣にある「は号」の客室は朝食の場所になっていました。
一部を覗いて客室同士は襖戸で仕切られているので、襖戸を外せば比較的大人数でも宿泊が可能です。伺ったところによれば最大で13人までは宿泊できるみたいで、現に過去にそういったグループがいたとのこと。宿泊人数が明確に定まっているわけではなく、場合によっては臨機応変に対応できるのが旅館のいいところの一つかもしれません。
部屋に案内していただいた後はひとしきりまったりし、浴衣に着替えて早速温泉に向かいました。
温泉
温泉については、旅館の目の前にある元湯 漆仁の湯に入りに行く形になります。
この漆仁の湯は湯乃上館が経営されている温泉で、ご主人や奥さんの姿をよく見かけました。旅館と直結しているわけではないので外履きに履き替えてから屋外に一度出る形になります。
その都合上、この湯村温泉の立地や季節柄の空気を味わえることができるので面倒さは全くありませんでした。
通常の宿泊であれば、一度チェックインすれば屋外に出るということはあまりありません。それに対して湯乃上館ではほぼ自動的に一度は外へ出かけることになるので、夕方で少し低くなった気温とか、川沿いを吹き抜けていく風を感じたりすることができます。
旅館そのものが存在している場所というか、その土地に滞在しているという実感を得るにはこれが実にいい。
日帰り客の場合は入口で券を購入する形になるのに対して、今回は宿泊なのでそのまま入ることができます。
待合室には椅子があって休憩することができるほかに、アイスや飲み物、それに醤油やシャインマスカットなどの特産品が販売されていました。温泉上がりといえば冷たい飲み物や食べ物が欲しくなるものだし、そのあたりを見透かしたような品揃えになっています。
漆仁の湯がある建物とは別に家族風呂(貸し切り湯)もあって、こちらは空いていれば好きなタイミングで入ることが可能。家族風呂は露天風呂になっていおり、ほぼ全体を屋根が覆っているので雨が降っていても問題ない様子でした。
なお漆仁の湯や家族風呂には固形石鹸しか設置されておらず、それ以外のものが必要になった場合は券売機で購入するか、こちらで用意することになります。湯乃上館の玄関にはシャンプーリンスが置かれているので、宿泊者はそれを持っていく形になっていました。
漆仁の湯の様子がこちら。
漆仁の湯は内湯と露天風呂から構成されており、内湯の洗い場は3箇所。シャワーはなく、洗い場用として注がれている湯を直接使う形になっています。湯村温泉自体が加熱・冷却・循環のない100%の源泉かけ流しとなっており、泉質はアルカリ性単純温泉、pHは8.7。さらに源泉温度は43℃とそのまま入るのに適した温度ということで、まさに自然そのままの温泉を堪能できる場所です。
お湯は無色透明でその温かさ効果はかなりのもので、秋口になって少々冷え込んだ身体に染み込んでいくような気持ちよさがありました。露天風呂の方は内湯よりも少し温度が低く、澄んだ空気を味わいながらの長湯が向いていると思います。
今回、湯村温泉を訪れる際の懸念として「まだ気温が高いのでは?」と思っていたけど、実際には日が傾いてくると体感的にちょうどいいくらいまで下がってくれました。
おかげで温泉の熱さが非常に心地よく感じられたし、何よりも夏が終わって秋が到来したということが身にしみて理解できた感じ。
囲炉裏での夕食
夕食は電話口で予約した通り、旅館のすぐ横にある茅葺屋根の建物の中でいただくことになります。
建物の中央には大きな囲炉裏が備えられていて、このほとりで食事をとるというシチュエーション。
これが想像以上に趣がある。
囲炉裏での食事は机とは微妙に異なる高さに料理が置かれていき、隣の人との間隔も座布団や椅子ではない独特なもの。2人で宿泊した場合は斜め向かいにもう片方が座る形になるので、話す際のやりとりもどこか風情があります。
机に向かってという形ではなく、囲炉裏を囲んでという言葉の通りに視線が中央に集まっているからかもしれない。
まずは小鉢類が登場し、それらをつまみつつ気分を徐々に盛り上げていきます。
料理としては最初なのに、すでにどれもが美味しくて早速酒が進んでしまった。味付けはあっさりとしていて素朴な味わいで、島根県の素材独自の味を大切にしていることが伺えます。
そして囲炉裏を囲む食事の最大の特徴がこれ。
囲炉裏を使って目の前で料理を仕上げていき、客側はそれを間近で見ることができるという点。鮎の塩焼きを焼いている光景だけでなく、その音や匂いまで直接食欲を刺激してくるという粋な形になっています。
すでに出来上がった料理を見つめて美味しそうという感想を抱くのが一般的な旅館の食事であるのに対し、ここではその過程を含めて食事そのものを楽しむことができる。
さらには焼いている間にご主人の語りが合わさって、もうこの時間の過ごし方だけでここに泊まって良かったと思えるくらいでした。
お酒類については一通り揃っており、今回注文したビールや日本酒の他にもワイン等があるそうです。
日本酒は仁多郡横田町の簸上酒造「深山の香」と、雲南市木次町の木次酒造「雲」を注文。前者は比較的あっさりめで飲みやすく、後者は味が濃くて重みを感じる味わいでした。
どちらも甲乙つけがたいほど今回の料理に合っており、特に後者についてはその味に感動してしまって翌日酒造で購入してから帰りました。
今までに島根を何回か訪れて分かったことの一つとしては、島根の食材は美味しいものばかりということ。米しかり日本酒しかり、川魚や野菜も含めて「食」が整いすぎている。食に加えて景観も素晴らしいのだから、今後も島根県を訪れる機会は多そう。
鮎の後は手羽元と揚げが囲炉裏で焼かれ、火が通ったばかりのそれらを口にするとあっという間に幸せになってしまった。揚げについては大豆の香りと醤油の組み合わせの破壊力がもう凄いの。
囲炉裏で焼いた特有の香りがそのまま残っていて五感を刺激してくる上に、ご主人のお話に耳を傾けながらの食事が実に楽しい。
囲炉裏コミュニケーションというか、"囲む"形式だからこそ成り立つコミュニケーションの方式。このコロナ禍で輪になって複数人で食を満喫するのを久しくやっていなかっただけに、これがこんなに面白いものということを失念していた。
結果的には2人でおひつを空にしてしまって、仁多米に合いすぎる料理ばかりなのだからこれは仕方ない。仁多米自体が単独で何杯でも食べられるくらいに美味いお米だし、それに強力なおかずが加わったらこうなるのは当然。
こんな感じで、湯乃上館の夕食は囲炉裏ならではを体感できる素敵なものでした。
部屋に戻ると布団が敷かれていて、気分的にはもう寝るだけの状態。
しかし寝るにはまだ早いということで、温泉の待合室で購入しておいたシャインマスカットを部屋でいただきました。これだけ大きな実が揃っていて価格はなんと1000円。お得ってレベルじゃない。
シャインマスカットを食べ終わった後は再度温泉へ。
昼間は人が多かった温泉も寝静まる時間になれば静寂そのもの。湯村温泉の近くには街灯もまばらで、夜になれば川のせせらぎくらいしか聞こえてきません。そんな中で温泉を独占できていることがまず嬉しいし、自分が求めていた温泉地はまさしくこれだと思う。
賑やかな温泉街もいいものだけど、湯村温泉のような平穏な場所で過ごす一夜もまた魅力あるもの。温泉から上がった後はそのまま床につきました。
翌朝
起床した我々はまず朝風呂へ入りに行き、眠気がまだとれないまま部屋で待っていると朝食の時間です。
朝食の内容はこんな感じ。
昨晩に引き続いて仁多米の消費が半端ではなく、自分は今日はそれほど走らないとはいえ大食いになってしまうほど。日常では少食なのに旅先では大食いになってしまうの、たぶん自分だけではないと思う。
気がつけばもう出発する時間になってました。
今回の旅は「現地集合・現地解散」を採用しており、昨日は新尾道と宍道湖からそれぞれ個別に走ってきて合流。今日は彼は岡山県の高梁へ向かうようで、道中の無事を祈りました。
こういう形で宿泊するのはあまり経験がなかったものの、ロードバイクという移動手段を活用するのであれば結構アリかもしれません。
おわりに
湯村温泉 湯乃上館は歴史ある温泉街の中に佇む旅館。温泉や食事に加えて客室から眺める風景も山陰出雲独特のものと、地域に深く根ざした素敵なところです。
今回の滞在を通じて静かな時間を過ごしたいという人には心からおすすめできる旅館だと感じたし、1日2組までという制限はあるものの、かけがえのない宿泊になるのは間違いないです。電話予約の際は「夕食を囲炉裏で」と伝えることをお忘れなく。
おしまい。
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