2020年も残り3ヶ月となった10月の週末に、私は大阪へ向かう電車に乗っていた。
このところ朝晩は寒いくらいに冷え込むようになり、自転車に乗りやすい季節になってきました。こういうときは宿泊前提のライドを組んでどこかに行くのもいいですが、それと同時に寒い=温泉が最高に気持ちいいという関係が成り立つのもまた事実。
秋になったら温泉を目当てに全国を旅してみるかと漠然と思っていた矢先に、まさにそれを後押しするかのようなどこでもドアきっぷというサービスが発表されました。
どこでもドアきっぷは2日用と3日用の2種類があり、いずれも2人以上が同一行程で乗車する場合に限り利用できます。2日用はJR西日本全線の新幹線・特急を含む全列車の自由席が乗り放題で、3日用はJR西日本に加え、JR九州とJR四国全線の全列車自由席が乗り放題という神仕様なので、用途に合わせて自由に行程が組めるというわけ。
というわけで、今回は西日本の旅をすることにしました。
西日本 電車の旅
もともと岐阜県に住んでいる関係もあり、西日本はあまり訪れることができていない地域としていつも頭の片隅にありました。特に山陰地方は車でも電車でも行きにくい場所にあるので、いつか行けたらいいなくらいに考えていたので一石二鳥です。
日程としては2泊3日で、この記事は前半の島根県・温泉津温泉に焦点を当てたものになります。
まずは大阪駅で同行者と合流し、倉吉行きの特急に飛び乗りました。倉吉からは新山口行きの特急に乗り換えて温泉津に向かいます。
大阪から温泉津までは地図上だとかなり遠く感じるものの、実は特急を使えば乗り換え1回だけで到着してしまう。そう思えばあながち遠くというわけでもない。
目的地までの道中はすべて電車移動です。
この「車窓から眺める」動作も久しぶり感がある。乗っているだけで着くのも非常に楽ですが、道中の風景を楽しめるのが電車移動の醍醐味の一つでもあります。
視界に入ったと思ったらすぐ後方に消えていく町並みをただ眺めていたり、ここ自転車で走ったら面白そうだなとか考えてみたり。そして気がつけばあと数分で目的の駅に到着するアナウンスが流れて、もう着いたのかと我に返ったりする。
移動手段が数多く存在するこの時代に、あえて移動する道中を満喫するのも面白い。
温泉津の町並み
今回の旅の目的はすでに述べたとおり、温泉に入ること。
あとはそれにプラスして、良い雰囲気の宿に泊まることです。
目的地の温泉津温泉に到着。
温泉津温泉の開湯は1300年前と伝えられており、伝説によると大狸が入浴しているところを発見したものとされています。
また、すぐ近くにある石見銀山とともに発展してきた温泉街としても有名で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているほか、「石見銀山遺跡とその文化的景観」の一部として世界遺産にも登録されているという実に素敵な場所。
道の両側には旅館が立ち並ぶ静かな町並みが広がっており、これ以上ないほど落ち着けます。
さらに宿の数自体もそこまで多い方ではないため、日帰り客が帰ったあとは宿泊客だけの時間となります。
散策はひとまず宿に着いてからということで、早速今日のお宿にチェックインしました。
この旅館ますやは明治43年(1910年)創業110年の木造三階建て料理旅館。もともとは廻船問屋だったところを、船員を宿泊させるための建物を利用して、明治に旅館を創業したとのこと。
外観からのその歴史はなかなか伺えなかったものの、屋内に入ってみるとその雰囲気の良さに驚くばかりでした。
案内されたのは3階の奥にある二間続きの立派な部屋で、ここは大正時代に増設されたとのこと。さらに廊下を挟んで反対側には寝室もあり、二人で3部屋をのびのびと使えることになります。
旅先で旅館に到着して荷物を置いた後、さあ散策に出かけるぞ!と意気込むばかりで一向に立ち上がれないという経験が多いです。今回もそんな感じ。
日中の温泉津温泉で遭遇する湯治客は、2箇所ある日帰り温泉(薬師湯と元湯)に入りに来る観光客が大半です。
とはいえ駐車場は台数が多いとは言えず、さらに温泉街のメインストリートはすれ違い不可なほど狭いので、車が通るのも一苦労といったところでした。なので、ここを訪れる場合は宿泊して徒歩で歩き回るのが一番のおすすめです。
まずは、我々もその日帰り温泉に向かうことにしました。
いっぺんに両方とも入ってしまうのはもったいないので、まず今日は「薬師湯」に入り、明日の朝に「元湯」に入ることにしました。
薬師湯は1872年(明治5年)に発生した浜田地震により湧き出た源泉を引いたものであり、これによって「震湯」の別名があるという珍しい温泉です。
また、日本温泉協会の天然温泉の審査で最高評価のオール5を受けた(2005年9月当時)100%本物のかけ流し湯ということで、温泉津温泉を代表する温泉といっても過言ではない。
ここを目当てに訪れる人も多いみたいです。
オール5は山陰地方ではここだけということで、その意味でも期待が持てます。
温泉の形式としては自分の好きな銭湯形式で、中心の番台の左右に男湯と女湯があります。
温泉へ続く扉を開けて、まず目に飛び込んできた風景がこれ。
湯船の周りに咲く湯の花が、まるで彫刻のように固まって芸術作品さながらの様相になっている。どうやらこれは流れ出た温泉の成分がそのまま固まっているものらしく、自然界の美しさを感じると同時に、その効能の高さが湯に浸かる前からもう分かってしまうくらいに雄弁な光景でした。
源泉の温度は46℃で、さらに炭酸ガス成分も多く含まれているので炭酸泉の効能も期待できます。炭酸ガスが血行を促進してくれるため、温度の高さも相まって身体が秒で温かくなるという形。
湯船の端っこの方だと温度が実にちょうどいい感じになっていて、入り口の「おすすめの入り方」にも書かれている通り、湯船に使っては一旦出て休憩し、また入るということを繰り返していくうちにぽかぽかになりました。
湯船から出て浴衣を着ている最中も全く湯冷めすることはなく、いつまでも温かさが持続するような感じ。
なんか肌もきれいになった気がするし、実に良い湯だった。
放心状態で薬師湯を出ようとしたところ、外から見えていた2階部分へまだ行っていないことに気がついたので上ってみることにしました。
2階には休憩場所があって、ここの居心地の良さがまた凄かった。
通りに面した和洋折衷かつレトロ調なスペースが、温泉に入った後で一息つくのに実にちょうどいい。窓が大きくとってあるので見晴らしもいいし、通りを歩く湯治客を眺めながらのんびりする時間は心地よいものでした。
3階部分の屋上からは、温泉津の町並みを一望することができます。
木造旅館が立ち並ぶ光景を見ていると、まるで自分が大正時代~昭和時代にでもタイムスリップしたかのような錯覚に陥ってしまう。この感情はあながち錯覚でもなくて、建物自体は当時のままなので、時代が令和に移り変わっただけなような気もしてくる。
山沿いを縫うように走っている狭い道。そこに連なる歴史ある町並み。これほどの風景がまるまる保存されていて、令和の時代に生きていながらそこを散策しているなんて、本当に今日は贅沢な1日だ。
ますや旅館の夕食
ぼーっと景色を眺めていたら宿の夕食の時間が差し迫っていたため、散策を一時中断して食事をいただくことにします。
夕食のお品書きをざっと箇条書きにしてみると、以下の通り。
- 先付…胡麻豆腐、イクラ、山葵
- 八寸…鶏肝甲州寄せ、九十檸檬煮、姫栄螺、つの字海老、合鴨ロース、枝豆塩茹で、〆秋刀魚、酢味噌掛け
- 造り…平政、鯛、烏賊、カナ、伊佐木焼霜
- 焼物…穴子、零余子南瓜巻
- 蒸物…甘鯛、萩饅頭、菊花餡
- 煮物…季節の魚、煮付、針生姜
- 油物…マトウ鯛、天麩羅、季節の野菜
- 食事…蕎麦
- 吸物…甘鯛、ナメコ、三つ葉、柚子
- 御飯…温泉津産コシヒカリ、香の物
- 甘味…季節の果物盛り合わせ
もう豪華すぎて泣きそう。
温泉街の町並みだけ見ると相当な山間部に位置しているかのように思える温泉津温泉ですが、実はかなり海に近いです。
それを象徴するように料理は海鮮系が中心で、しかもそのどれもが箸が止まらないほど美味しい。
こんな豪勢な夕食には是非ともお酒を合わせないともったいないので、気になったお酒を追加で注文してみました。
それがこちら、温泉津の地ビールです。
全然知らなかったんですけど、温泉津ではクラフトビールも有名だそうです。調べてみると今年の6月に誕生したばかりのもので、それぞれ地元産の甘夏ミカンと米を原料の一部に使っているみたい。
食材は当然地元のもので、そしてお酒も地元感あふれるもの。この組み合わせが美味しくないわけがないく、お酒とともに心ゆくまで夕食を楽しむことができました。
迫力ある石見神楽
夕食も済んだことだし、あとは夜の町並みを散策してから布団に潜り込んで今日は終わりか…と思うのは実は気が早い。
温泉津の夜はまだまだ終わらない。
というわけで、温泉津温泉の名物である石見神楽の会場にやってきました。
石見神楽は、島根県西部の石見地方と広島県北西部の安芸地方北部において伝統芸能として受け継がれている神楽で、主に日本神話などを題材としているものです。特に温泉津温泉では毎週土曜日にここ龍御前神社で開催され、宿泊者限定で観覧が可能なんです。
【毎週土曜】ゆのつ温泉 夜神楽 石見神楽を【世界遺産石見銀山】の温泉津温泉で公演中 -
実は、宿のチェックインのときに「今夜は石見神楽の試験拝観があるんですが、よかったらいかがですか?」と声を掛けられ、これには驚くしかありませんでした。
話によるとコロナウイルスの関係で4月以降は公演を中止していたものの、本日から試験的に公演を再開したらしいんです。試験拝観を何度か繰り返した後、予定では11月から正式に再開する方針になっています。
たまたまこの日に温泉津温泉に泊まることに決め、いざ当日に行ってみたら今日から数カ月ぶりに公演が再開されたとか、もう運が良すぎる以外に言葉が見つからない。
今夜の演目は「恵比寿」と「大蛇」の2つ。
その名の通り恵比寿様が鯛を釣り上げるものと、須佐男命による八岐之大蛇退治の神話が元になっています。神楽を観るのは地元以来で、かなり懐かしい思いになったりしました。
小気味よい太鼓や鈴、笛の音とともに繰り広げられる「舞」の所作は、最近では忘れていた日本の芸能の奥深さを如実に感じさせるものでした。場所全体が静かな雰囲気の中にある分、演者の一挙一動が増幅されるように感じられて面白い。
客席と舞台が非常に近い(1m無いくらい)のもあり、非常に迫力ある演技に度肝を抜かれました。
特に「大蛇」では蛇が全部で4匹登場するのですが、これらの動きがとんでもなくダイナミックで実に舌を巻いた。
蛇が相互に絡み合ったり、客席にまで這い寄ってきたりとまるで本物の蛇のような動きをしている。それでいてぐちゃぐちゃになることもなく息のあった動作をするし、あの狭い空間でよくぶつかったりしないなと思ったり。
本当に素晴らしいものを見せていただきました。
夜の温泉津温泉街を歩く
神楽の興奮も冷めやらぬまま、そのままの勢いで温泉津温泉街の散策へと繰り出しました。
時間が時間なのですでに日帰り客はなし。神楽を見ていた宿泊客も宿に戻ってのんびりしているようです。こういう夜の時間の散策は宿泊しないとできないわけで、散策をするにあたってこれ以上のシチュエーションはない。
この幽玄み溢れる空気感、たまらない。
静かに歩くために下駄ではなくサンダルを履き、この世ではないような空間をただ歩いていく。自分がやりたかったのはまさにこういう散策だ。
上の方で、温泉津温泉を歩いていると「まるでタイムスリップしたかのよう」と書きましたが、それとはちょっと違った雰囲気が広がっています。
夜の温泉津温泉は人間の世界ではないような静寂が支配してて、それがまた良い。温泉街自体はそこまで広くないので散策もしやすく、ふと歩いてはベンチに座って休んだりしてました。
その後は宿に戻って布団に潜り込んで就寝。
翌朝は元湯から
次の日は6時に目を覚まし、眠たい身体を叩き起こすためにも日帰り温泉である元湯に入りに行きました。
元湯は、昨日入った薬師湯と対をなす温泉。
薬師湯が地震によって湧き出た源泉なのに対し、こちらは温泉津温泉が始まったときからの源泉を引いています。
引き戸をガラッと開けた先には階段があり、一段低い位置に湯船が3箇所あります。
元湯の特徴は、これら複数の湯船ですべて温度が違うということ。一番ぬるい湯は41℃くらいで、次の「ぬるい湯」と書かれている湯は43-44℃、そして「あつい湯」はなんと48℃と、並の人間には入れないくらい熱いです。
地元のおじさん方は「ぬるい湯」に普通に入ってましたが、自分はこの温度でも相当熱く感じるので足から徐々に慣れさせていく必要がありました。48℃の方についてはとてもじゃないけど無理。なんか、温泉の効能云々の前に温度的な意味で疾患を消滅させてくれそう。
とはいえ、一番ぬるい湯だとなんか物足りない感じがしたので、自分的には42℃くらいが適温なのかなと思ったりもします。最終的には「ぬるい湯」にもなんとか浸かることができました。こんな風に、朝一から温泉に入ることができるのも宿泊するメリットの一つだと思います。
日帰りで入りに来ると同じ目的の人も多く訪れているわけで、比較的静かな時間帯に入ることができるのはありがたい。
温泉から出たあとは、昨日とは違う意味で放心してました。
湯冷めしにくい泉質とはいえ、結構どころではないくらい熱かったので朝の寒さが却って心地よい。
朝食は旅館ならではのメニューを中心に、一晩かけて室内で乾燥させた板わかめで無限に白米を消費するなどしました。
朝から温泉に入って、旅館の朝食を食べる。これはもう黄金パターンだ。
そんなこんなで、気がつけばもう宿を去る時間。
温泉津温泉で過ごした2日は体感時間でいうと半日くらいで、ここで出会った風景や体験がいかに密なものだったか分かる。日帰り温泉に石見神楽、そして夜の散策。これ以上ないくらいに充実した2日間でした。
温泉津温泉を後にした我々は次の目的地へ向かうわけですが、それはまた次回の話。
おわりに
そういえば山陰地方ってあまり行ったことないな、という思いから決行した秋の温泉旅行。
温泉津温泉はこじんまりとまとまった温泉街もさることながら、温泉の質や鄙びた雰囲気が実に自分の性癖に合う素敵な場所でした。
自分のしたいような「旅」もできたし、宿も食事も全部ひっくるめて最高以外の何物でもないです。今回自分がしたような旅行のスタイルが好きな方にとっては本当におすすめできるし、秋の夜長に街路を歩くのもまた楽しいもの。
ここはぜひともまた訪れたい。
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