今回は、長野県松本市の高ボッチ山にある旅館に泊まってきました。
高ボッチ山は長野県岡谷市と塩尻市との境にある標高1,665mの山で、眼下に見える諏訪湖の向こう側に富士山がそびえる風景がとにかく有名なところです。なので高ボッチ山というと山頂だけが注目されており、その中腹に静かな温泉街が広がっていることはあまり知られていません。
塩尻から松本方面へ伸びる国道19号を東に逸れ、高ボッチ山へと徐々に標高を上げていく道の道中、塩尻市と松本市をちょうど隔てる境(標高およそ1,000m)にある崖の湯温泉がまさしくそれです。崖の湯温泉は明治7年から湯治場として開発された温泉で、その発見は猟師が傷ついた猿が湯につかっているのを見つけたのが始まりとされています。
今回泊まったのは、その崖の湯温泉のはじまりから存在する山上旅館。
女将さんの先祖がまさにその温泉を発見された方(百瀬彦太郎)で、当時から山深いこの地で営まれており長い歴史があります。
高ボッチ山周辺が雪で覆われる前に宿泊してきました。
崖の湯温泉街
看板に沿って山方面を走っていると次第に道の斜度が急になり、坂道の左右に家屋がいくつか現れてきます。ここが崖の湯温泉の中心部で、このまま道を上っていけば高ボッチ山に到着するというシンプルなルート。
高ボッチ山を訪れる場合には必ずといっていいほど目に付きやすいところにあります。
崖の湯温泉は温泉街である一方で、今では廃業されている旅館が目立ちます。
いずれもかなり大きめの旅館で、そのうち一軒については木造3階建て。現役の頃はかなり賑わっていたと思われる中で、崖の湯温泉そのものがあまり目立たない場所にあることも関係し、特に冬はひっそりと静まり返っていました。
例えば夏場だったら高ボッチ山を訪れる人も多いだろうけど、冬場は崖の湯温泉から高ボッチ山への道は冬季閉鎖になります。なので、冬の間はこの温泉街が道の終点になるというわけです。
山上旅館 外観
山上旅館は温泉街の一番奥に位置しており、長い坂を上った先にありました。
崖の湯温泉の旅館は山○旅館という名前が多く、山上旅館のほかにも山二旅館(廃業)や山七旅館(現役)があります。
その屋号はいずれも"山印"の下に○が付いたもので、山上旅館の場合は山印の下に「上」が付きます。
旅館の前には広めの空き地があり、車で訪れた場合はこちらに止めることができます。
旅館は外観から確認できる通り木造3階建てで、旧館(昭和9年建築)と新館(懸け造り、昭和30年建築)から構成されており、両者は廊下で繋がっている構造です。
坂道を順当に上っていった先に見えるのが玄関がある旧館で、新館はその後ろにあるため正面からでは確認できません。
山上旅館の全容は背後に回ってみてようやく掴むことでき、旧館の奥にある新館も含めて非常に大きな建物となっています。
特に旧館は1階から3階までが一応確認できるものの、周りに遮るものが特にないだけあってむしろその巨大さが如実に伝わってくる。正面だけでなく横や背面から建物を眺められるというのは珍しい気がしました。
旧館は2階が外側に大きくせり出した特殊な構造となっていますが、これについては客室を後から増築したのかもしれません。
旧館の右手にある道を上っていった先には薬師堂があり、古くから歩くのも困難であった湯治客がこの温泉に浸かることで治り、杖もいらなくなって願果した杖を修めて帰る場所とのこと。
その隣から温泉街を流れている小さな水路は松本市と塩尻市の境になっていて、驚いたのはこの水路にわさびが生えていること。わさびといえば長野だと安曇野が有名で、水がきれいでないと育たないと聞いたことがあります。それがこれだけ大量に生えているなんて凄すぎる。
山上旅館の食事はどれも長野県で採れたもの、もっというと旅館の畑で採れたものがふんだんに使われており、その中にはこのわさびの葉も含まれていました。
ちなみに山上旅館には猫がいます。
といっても飼っているわけではなく野良猫で、いっときは何十匹もいたこともあったそうですが今では一匹だけ。自分が旅館の周辺を散策している最中は常に旧館1階厨房の裏手に待機していて、どうやらご飯をもらえると思っているみたいです(女将さん曰くあげてないらしいが…)。夜も鳴き声がたまに聞こえました。
日が照っているときには玄関の前で箱座りしてたので、運が良ければ会えるかも。
旧館
1階
それでは女将さんにご挨拶して旅館の内部へ。
旧館1階には旅館の方が過ごされている厨房や居間があり、客が利用するような部屋はありません。
なので、宿泊客はどの場合でも左手奥にある階段を上がって2階以上に向かう形になっています。食事も部屋出しとなっているため、客が一箇所に集まるということはない様子でした。
厨房の手前には長野県の観光名所の案内などがあるほか、旅館で出しているお菓子の販売も行っているようです。
老舗企業の証として松本市の表彰があったり、かつて湯治客として留まっていた元横綱・琴桜関の手形があったりと展示が豊富でした。
2階
1階を経て次は2階に向かいます。
今では宿泊のメインは旧館2階になっているようで、主な設備が2階に集中していることからも滞在中はここを通ることが多いと思います。
2階への階段は途中で踊り場を介して右方向に折れ曲がっており、その先の階段はなんと二手に分かれていました。
階段奥の手すりや踊り場床の木に比べて階段の木の色が比較的新しいことから、階段はどうやら後付であることが伺えます。しかし途中から二股にした理由はよくわからず、単純に考えれば左手方向の客室に向かいやすくするためかと。
2階はこんな感じで、上がってすぐの展示の左手方向に廊下が続いています。
その先の分岐を右手に進めば客室へと繋がっており、左手に向かえば温泉や新館へと行くことができます。
洗面所は一番右端の蛇口だけ型式が古いですが、これは昔からずっと使われている蛇口だから。
ここからは温泉の源泉(冷鉱泉)を飲むことができて、とても冷たいので温泉あがりなどにぐいっとやると最高に美味しい。
新館方面に進むと幅のある廊下へと繋がっていて、ここには洗面所やソファ、トイレなどがあります。
さらにはここから旧館3階、温泉、新館へと行くことができるので、ここから旧館1階へも向かえることを考えると、たぶん一番通ることになる廊下になると思います。特に洗面所やトイレはここ以外だと温泉の真ん前にしかありませんが、トイレは最新式でウォシュレット付きです。ここでは触れていませんが館内にはWiFiも飛んでいて、古風な外観の割には設備は新しいのが意外でした。
人通りが多い場所だからなのかストーブも置かれてましたが、この日の宿泊者は自分を入れて3人。廊下を歩く頻度も高いとはいえない中で、何を言うともなくじっと燃えているストーブがなんか癖になります。こういう風に、人通りがない or 少ないところで機械的に動作しているものを眺めるのが個人的に好き。
新館部分の廊下には冷蔵庫や電子レンジが置かれており、これらは自由に使うことが可能です。
さらに缶ビールやジュースが冷えている小さな冷蔵庫も別にあり、こちらは各自が飲んだあとに精算する形になっています。一般的には見かけることが少ないよなよなエール等も置いてあって驚きました。さすがは長野県。
客室
今回泊まる客室を含め、主な客室は旧館2階正面にあるのでそちらに向かいます。
今回泊まったのは廊下突き当り右側の18号室で、2面が外に面している角部屋。このおかげで部屋の中が比較的明るく、電気を消しても外からの明かりだけで過ごすことができます。
その2面は障子戸になっていて外側にスペースがあり、片方は広縁になっていました。もう片方にも狭い廊下のようなものがあったのですが、昔は欄干だったのを改装したのかもしれません。
部屋には炬燵やテレビ、電気式の送風機などが備えられていて、すでに布団が敷かれていました。炬燵の大きさはこじんまりとしており、一人で入るのに適している感じです。
部屋と廊下との出入りは襖戸になっているんだろうなとはある程度予想していたものの、広縁や障子戸も備えているとは思っても見ませんでした。しかも部屋自体が広いので窮屈感がなく、採光の多さも相まって開放感があります。
広縁もなかなか独特の造りになっていて、窓ガラスの内側にさらに障子戸があります。その境がまるでテーブルのように高さがあって、ここに浴衣やタオルが置かれていました。
広縁に置かれている椅子はかなり年季が入ったものらしく、座るとふっくらと沈み込むような感触が特徴的。
その他の客室も拝見したところ、いずれの客室もすぐ稼働できる状態に保たれているようでした。
自分が泊まっている客室も含めて気になった点としては、押し入れの下に太い床板があること。一般的な押入れって畳の延長線上にある床のすぐ上に戸がある形になっているのに対して、ここではその間に高さ10cmくらいの床板がプラスされていて、戸はその上を滑る構造になっていました。すぐ隣りにある床の間の床板を延長したような造りになっています。
押し入れの戸の形も完全な長方形というわけではなく、正方形に近い長方形のような形。
これ、どこかで見たような造りだと思って見返してみたところ、以前宿泊した小谷温泉 山田旅館の客室もこんな風に床板が設けられてました。もしかしたら古い旅館の特徴の一つなのかもしれません。
部屋内にあった客室の見取り図はこのような感じ。
旧館2階には廊下を挟んで計6つの部屋があり、先程通った新館への廊下の先には新館の客室がそれぞれあります。旧館の部屋番号が数字なのに対し、新館の部屋番号は鳥の名前になっているのがまた素敵でした。山の中にある旅館なので、鳥の名前を取り入れたのはとても納得がいきます。
この日は旧館に泊まっているのが自分ひとりで、もう一組のご夫婦は新館1階の「のじこ」に泊まれているようでした。
3階
客室としてはすでに使われていませんが、外から見たときにも気になった3階も見てみました。
旧館3階へは洗面所前の階段から向かうことができ、階段の先には控室のような小さな部屋が2つほど。
部屋の隣には戸があって、そこから先が3階の主な空間になっています。
3階は真ん中に障子戸と襖戸で区切られた部屋が2つ隣り合っていて、その外周を廊下が回っているという特殊な造り。
さらに廊下はすべて畳敷きになっていて、予備の机も多かったことから主な用途は宴会用の大広間だったと思われます。廊下と客室を区切っている障子戸を外せば全体としてかなり広い空間が確保できるので、宴会のときは相当な大人数でも対応できたのでは。
ただし長い間使われていないらしく、人が立ち入った形跡もそんなにない様子でした。昔は崖の湯温泉が賑わっていたと思われるため宴会をする回数もかなりあったと思うけど、今ではもっぱら宿泊のみの客がメインなので使う機会も少ないのかもしれません。
新館
旧館の散策はこれくらいにして、次は新館に向かってみます。
比較的平地に建てられている旧館とは異なり、後から建てられた新館は山の斜面に建築された懸け造りの構造。
廊下や階段の配置が旧館とは全く異なっていて、特に小さな階段が頻出していてかなり新鮮でした。山手方向に廊下が段違いに2本走っており、その廊下の途中のところどころに客室がある感じです。
新館は一応3階までありますが常用しているのは2階までの様子で、いずれも鍵がかかっていて中に入ることはできませんでした。廊下との境が襖戸のため鍵が一切ない旧館と比較すると、普段から使われているのは新館の方のようです。
温泉
旅館内の散策はこれで終わり。
客室に戻ってきたところかなり寒くなってきたので、夕食までの時間は温泉で過ごすことにしました。
温泉は旧館の建物からさらに左方向に進んだところにあって、その途中には客室がいくつかあったものの今では使われていない様子です。
ここに見えている客室は2階への階段を上った先の扉から見えていた場所であり、温泉に向かう途中の戸が本来の入り口でした。
その先にある階段を下った先は廊下が左右に分かれており、右へ進めばいくつかの客室(こちらも使われていない)を経て玄関へ、左へ進めばトイレや洗面所を経て温泉へと繋がっています。
動線的には旧館1階から直接温泉へ行くことも可能と思ったところ、旧館1階の居間より先は旅館の方のみの通路になっているようなので、結論としては2階を経由する必要がある様子。
温泉は男女別に分かれており、右が殿方、左が御婦人となっていました。こういう風に男湯/女湯を表記するのも珍しいです。
崖の湯温泉の温泉はカルシウム・マグネシウムー硫酸塩・炭酸水素塩冷鉱泉(低張性中性冷鉱泉)で、泉温は12.2℃、pHは7.0の冷鉱泉です。湯はわずかに白濁しているもののほぼ透明で、味はというと苦味もなく飲みやすい印象。
加温はされていますがその分季節を問わずに温まることができ、今回の冬の訪問においても気持ちいい入浴が可能です。しかも熱すぎない程度の温度なので長湯も容易でした。
温泉にはいつでも入れるようで、夜は電灯が消されていますが自分で点けて入れば問題ないようです。結局、朝風呂も含めて3回ほど入りに行きました。
夕食~翌朝
冬はとにかく暗くなるのが早く、しかも標高約1,000mの山中ともなれば空気が冷えるのが本当にあっという間。たまに廊下に出てみればその寒さに凍えるようで、特に意識しなくても温泉に複数回入りに行きたくなる。
完全に暗くなる前によるの散策もしましたが、屋外は本当に寒いのでさっさと中に入りました。
個人的に旅館は昼間の日光が当たっているときと夜とで全く違う雰囲気があると思っていて、なるべく夜にも出かけて旅館の散策をするようにしています。
普通に考えればこの時期の夜なんて寒いだけだけど、昼間とは違ってほんのりと小さな灯りがともっている旅館もまた趣がある。せっかく宿泊していることだし、時間帯による変化を味わうのも面白い。
外から戻ってきて部屋の中では炬燵から出られない時間が続き、いつの間にか夕食の時間になりました。
山上旅館の宿泊プランは、2食付きの場合は8,500円、9,500円、10,500円の3種類から選ぶことができ、今回選んだのは10,500円のプラン。値段に応じて部屋の広さと食事の内容が変わるらしく、つまり上の写真の献立が一番豪華な内容です。
野菜については旅館の庭で育てているものやもらってきたものがほとんどで、鯉については旅館の右手に生簀があって、そこで何匹か泳いでたのでおそらくそれだと思います。
自給自足の面が比較的強い献立となっており、その背景を考えながらいただく食事は最高でした。鯉の煮物は岐阜や長野の一部で食べられているもので、松本市もその地域に含まれているようです。
酒については種類が豊富で、日本酒や通常のビールの他にクラフトビールも扱っているとのことなのでそれを注文。今回は苦味が強い方を頼み、食後に広縁で飲んでみたところこれが実に美味い。しかも広縁に座って飲むというのが雰囲気がでていて、ビールの味を何倍にも増幅させてくれるようでした。
布団は寒い地域らしく、掛け布団の上に毛布をかぶせる方式。
翌朝の朝食は濃い味付けの味噌汁と蜂の子がでて、これも長野県に泊まっているということを実感できるもので実に嬉しい。
この緩急のない素朴な献立も冬の旅に合っているような気がして好き。音がない冬の朝から朝風呂、そして客室に帰ってきてから朝食をいただくという流れのままに、心がずっと平穏なままにいただくことできる静かなものでした。冬って何もかもが静まり返っていて、そこに激しい要素は必要ない。
こんな感じで、山上旅館での滞在は終了。
山の中という環境に加えて、この冬という時期ならではの静けさが古い旅館にプラスされていて本当に居心地がよかったです。周りには何もないので温泉に没頭できるし、広縁に座って読書に勤しむもよし。一夜を過ごす旅館はその立地が重要な要素を占めることもあって、山上旅館はまさに下界の喧騒を忘れられる素敵な旅館でした。
おしまい。
コメント